のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

人間とは、自分が正しいと思い込む生き物である。

多かれ少なかれ、

人間とは、自分が正しいと思い込む生き物である。

と、

僕自身は常々考えるようにしている。

人生における人間関係をできるだけ円滑に回せるように。

 

それは、

・相手側

・自分側

の両者の視点において同様の事で。

 

どちら側も"自分のやっている事は正しい"と思うから、争いが生まれるのであって。

片方が、自分間違ってます、と宣告した時点で、大抵の場合は場は収まる。

 

"いや、僕は自分の間違えを認めた事があります!"

と高らかに宣言する人もいるだろう。

僕自身だって、

"すいません、僕が間違ってました。"

と認めた事はいくらでもある。

 

ただ、見方を変えると

"間違えを素直に認めている自分は正しい。"

と考えている部分もある、と思う。

穿った考え方かもしれないが。

僕自身はそう感じる事が多い。

 

人間は思い込みに弱い生き物で。

脳科学の本を読むと、

いかに記憶が曖昧に形成されているのかがわかる。

(その点の説明は今回省くが)

 

例えば、刑事事件における目撃者の話でもよく言われる事で。

あの人が犯人に違いない、と思っていると、

些細な事が怪しく思えてくるものである、とはよく言われる事である。

 

さて、

"自分が正しい"と思うとの観点で、言葉に出す意味、についての考察。

行動経済学の本を読んでいて気になったので紹介する。

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紹介されていたのは下記のような事である。

 

医者が、とある薬の宣伝のため、講演会で効能について語ったとする。

宣伝は、自分の主張ではなく、

他者からの要請で便宜を図っての宣伝である。

 

本人としては、

オススメの薬、とは思っていないけど、便宜を図っての紹介なのであるが。

講演を重ねていくと、オススメの薬であるように思えてくるとか。

 

その心理的な動きは。

自分が紹介する薬なのだから良いものに違いない、との考え方。

自分の言葉を信じていく = 正しいと思いこむ、のである。

 

そこから学ぶべき事はなにか?

自分が言葉を発した事は、少なからず、正しいと思い込む方向にバイアスがかかるとの事。

なので、例えば、"俺はあいつの事が嫌いだ。"と本心抜きに考えたとしても。

自分の発言に影響を受けて、

だんだん嫌いになる(嫌いになるための事実を集め出す)可能性はある、との事。

 

口は災いの元、とはよく言ったもので。

自らの戒めにすべき事である。

 

 

 

人生には、目的地なんてない。

人生には、目的地なんてない。

例えば、プロのバイオリニストを目指す人が、

プロになるために、今の曲を弾いているか?

 

人生は、

点ではなく線であるとの幻想。

線であると、考えるから、今が辛い時もある。

 

点で考えてみて。

 

ある舞台で、

スポットライトを浴びているイメージ。

そこには、過去も未来も存在せずに、

今だけがある。

 

これは、アドラー心理学の本を読んだ時に僕がメモした事である。

 

刹那的な考えであっても。

人は時にそれに救われる事もある。

 

確かに、

プロのバイオリニストを目指す人が、

プロのバイオリニストを目指すために目の前の曲を弾いているとするならば、

その曲は心に届かない、

と言われたとしても、不思議な事ではなく。

 

例えば、恋人と一緒に過ごしているとして。

貴方は、

恋人と結婚するために一緒にいるのではなく。

恋人と時を過ごしたいから共にあるのである。

 

着目すべきは、今。

過去は変わらないし。

未来は必ずしも今の延長線上ではない。

今が例え、どんな状況であったとしても。

未来は一変するし、何様にも変化する。

 

人生は色々な苦難があって。

挫けそうになる事もあるけれど。

自己啓発本の金言は時に人を勇気付ける。

 

そういう言葉に出逢えることは幸せである、と今更ながら思うのである。

 

お金が絡まない方が人は熱心に働くものである。

お金が絡まない方が人は熱心に働くものである。

と言われれば、嘘つけ、と思う。

 

大抵の人は給料がなくなれば出社すらしない。

それに、給料が上がれば仕事のやる気も充実する。

だから仕事ができるヤツは出世して給料が上がるのである。

 

ただ、よく考えると。

それは、お金をもらう前提の中での話であり。

その中でもらった方がやる気になるのは当たり前で。

 

そもそもの前提を

・お金をもらわない

・お金をもらう

の二択で考えた時、どちらが熱心であるか?

確かに、前者かも知れない、とは納得する。

 

確かに言われてみると、

僕自身が働くのは生活のため止むを得ずの部分もあり。

じゃあ、

・自発的にボランティアで瓦礫を片付けた時

・嫌いな上司に命令されて瓦礫を片付けた時

どちらがモチベーションありますか?

と問われれば、

間違いなく前者。

ボランティアで動いた方が、人はやる気になる。

 

との話を紹介してくれているのがこの本。

「不合理だからうまくいく」

ダン・アリエリー

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まぁ色々な実験結果はあるけれど。

より良い給料を求めて人は転職するのも事実だけど。

 

 

感情のままに決定をすべきではない!

感情のままに決定をしてはならない。

何故なら、

・感情は忘れるが。

・決定は残るから。

そして、残った決定が、後々の感情を束縛するから、である。

 

もっと詳細に言えば。

 

感情は必ず、霧散する。

これは誰しもが経験のある事で。

あの時、何故あそこまで感情的になったのか?

と後悔した事は誰しもある、と思う。

 

今になって思えば、

あそこまで感情的に行動しなければ良かった、と、

冷静さを取り戻しても後の祭り。

理屈では説明できないが、感情とはそういうものである。

 

感情と行動は切っても切れない縁であるのは皆納得すると思うが。

あくまで、

・感情が行動を生み出す

が基本であり、

逆に、

・行動が感情を生み出す

もしくは。

・行動が感情を決定づける

との見方は初めて知った。

 

ダン・アリエリーさんを読んだのは二作目

相変わらず、素晴らしい知見を得られる。

「不合理だからうまくいく」

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話を戻す。

"行動が感情を決定づける"、とは何か。

 

具体的に。

貴方が感情的に何かを決定づけたとする。

(まぁ、話はなんでもいいのだが)

例えば、

・夫が皿洗いもせずに、ぐうたら寝ているシーンを見て、イライラしている時に。

・夫が"社員旅行に行って来てもいい?”と聞いたとする。

貴方は言うまでもなく、

感情的になっていて、

"ふざけるな、社員旅行なんてダメに決まっているでしょ"

と告げたとする。(行動)

 

社員旅行を純粋に評価したわけではなく。

貴方は、皿洗いをしない夫にムカついただけなのだとしても。

・皿洗いをしない夫にムカついた事は忘れる

・でも、社員旅行を却下した事は忘れない

 

そうすると、どうなるか。

社員旅行を拒否した理由を後付けする、のである。

つまり、皿洗いをしなかった事にムカついていた事を忘れて、

社員旅行=悪。

次の社員旅行も断ろう、との思考回路が働く。

 

そうなると、旦那は永遠に社員旅行に行けない。

皿洗いをしなかった事が原因だが。

妻は皿洗いでイライラしていた感情が霧散するので、理由はわからなくなる。

 

皿洗いにイラついたから断ったにも関わらず。

皿洗いでイラついた事自体を忘れてしまうので、何故断ったかを忘れてしまう。

ただ、社員旅行を却下したのだから、それなりに理由はあるだろう、と考えるのが人間で。

適当な理由をつけて、

いつも飲み会で楽しんでいる奔放な夫なのだから、社員旅行なんていかせるわけにはいかない。

との思考回路になってしまうのである。

 

感情の結果、行動すると、

将来的に行動を狭める可能性があるのである。

 

願わくば、社員旅行ぐらい許してくれる妻を娶りたいもの。

日本酒は燗、常温で保存

読む本、読む本、"燗"をオススメしてくる。

日本酒の話。

 

まず、"燗"とは?

日本酒を徳利に入れ、適度にあたためること。

 である。

つまり、温かい日本酒である。

 

日本酒とは、とかく冷やすイメージはあって。

まぁ、寒い日だったら、温めても良し、程度の認識で今まで。

ただ、最近、読んだ日本酒の本で完全に覆された。

日本酒は"燗"である、と。

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"熟成"たる考え方が肝要である。

いい酒は熟成させてからこそ、旨くなる、と。

 

諸々の通念として、"鮮度が良いもの = 美味い"との考え方は全てに通じるものではなく。

日本酒も同じである、と。

 

日本酒において、"できたてホヤホヤなものが流通すると"生酒"と呼ばれる。

 

僕自身、"生酒"と言われれば、新鮮なのだから美味しいに違いない。

"要冷蔵?絞りたては違うな〜"

と思い喜んで購入したものである。

・・・

が、過去に読んだ2冊の日本酒フリークが書いた本には、

熟成が大切である、激烈に語れていた。

※生酒自体にも面白いものはある、との立場を認めた上で語られているのが良い。

 

そこまで言うなら、と、

いざ、"燗"で日本酒を味わってみると・・・

ふわぁ、と味わいが広がる。

なるほど、これが日本酒の味わい。

良き良き、とほろ酔い気分で上機嫌。

 

さて、

「世界一旨い日本酒」

との本には、

以下のような一文が紹介されている。

栓を開けて、さらに日数が経つたびに旨くなる酒。

これが最高にいい造りの酒である。

本書で紹介している銘柄は口開けをして一週間、二週間、さらに一ヶ月と味乗りして、美味しくなる。

口を開けてから半年放置したものを飲んで、その美味しさに驚いたこともある。

 

本書の中では、しっかりとした造りの日本酒は開栓した後も、

常温で保存すれば良い。

むしろ、常温保存でより美味しくなる。

と語られる。

 

んな、あほな。

と思いつつ。

常温で今、純米酒が3日目を迎えようとしております。

知らぬ事も多く、世の中まだまだ楽しめます。

 

 

 

プラシーボ効果のネタバラシについて。

"プラシーボ効果のネタバラシ"について考える。

 

まずは、プラシーボ効果の説明から。

よく知られた用語であり、知っている人も多いと思うが。

 

まずは引用。

偽薬(プラセボ)の投与によってみられる治癒効果。

薬物そのものの効能ではなく、投薬された安心感や医師への信頼などの心理作用によって症状が改善する状態をいう。

プラセボ効果

プラシーボ効果

 

要は、

医者が

"はい、お薬を処方いたしますね〜"

と言って、実はただのビタミン剤を処方して、

薬だと思って飲んだ患者が"薬と同じような効果を得る"事である。

薬を飲んだ、との安心感が良い効果をもたらす。

 

病は気から、とはよく言ったもので。

心理面の影響は大きなものである。

 

"プラシーボ効果のネタバラシ"に話を戻す。

 

プラシーボ効果がある、何らかの錠剤について。

実はこれは何でもないんですよ〜

と言ってしまうのが、"プラシーボ効果のネタバラシ"、である。

 

客観的には、"騙されていた人が真相を知る"

主観的には、"自分が騙されていたと気づく"

 

騙されている状態、とは決して肯定的な語感ではないが。

ただ、よく考えてみると。

効果があるのだからプラシーボだろうが何だろうが良いのでは?

との見方も一理あり。

 

例えば、酔い止めであれば。

"乗り物に酔わない" 事が1番の目的であり、

ラムネを酔い止めと騙されて飲み、プラシーボ的に酔わなくなったとしたら?

結果、酔い止め薬を飲んでいるのと同じである、と言える。

酔い止まってんじゃん?と言われたらそれまで。

 プラシーボだろうが、何だろうが、手段は誰も問わない、であろう。

 

そう考えると、"プラシーボ効果のネタバラシ"とは、

効果を失わせる罪深い効果、であるようにも思えて。

 

酔い止めと騙されている内はプラシーボ効果があったラムネに対して、

"オメーが飲んだのラムネだよ?"

と告げた瞬間から何となく酔い始めてしまう、との現象は誰しもが感覚的に納得できる話であろう。

だったら、ラムネを酔い止めと思って飲んでいる方が当人は幸せなのでは?

との見方もできてしまうなぁ、と思うのである。

 

大体、世の中に蔓延する、"〜な気がする"を奪ったら、世の中に楽しみはなくなる、と個人的には思う。

前回も触れたが、高級なワインを飲んでいる際に"美味しい気がする"と思っていれば当人は主観的に幸せなのである。

 

信じる者は救われる、との言葉は、

主観的には絶対に否定できない。

救われたと思うのは当人だから。

 

これは僕が宗教について考える時に毎回行き着く言葉である。

 

色々な事を教えてくれる名著。

 

「予想どおりに不合理」

行動経済学が明かす 「あなたがそれを選ぶわけ」

ダン・アリエリー

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人は "〜に違いない" と思い込めば、 思い込み自体に影響を受ける。

人は

"〜に違いない"

と思い込めば、

思い込み自体に影響を受ける。

 

貴方は高価なワインを買って来たとします。

ボーナスも入ったし、今夜は奮発して、と茹でたてのじゃがいもみたいなホクホク顔で。

 

その時、確実に"予測バイアス"が発生する。

つまり、

・高価なワイン = 美味いに違いないワイン

との思考回路。

 

お金を払った行為自体が、良いワインを買ったとの裏付けとなり、

"今夜の俺は美味しいワインを飲むぞ!"

との予測(期待)が成り立つ。

 

"美味いワインを飲む"との予測は、ワインを美味しくする。

 

全く同じワインを飲んだとしても、

・美味しいと期待(予測)して飲むワイン

・不味いと予測して飲むワイン

であれば、前者が美味しく感じるものである。

 

"いやいや、僕は味の違いがわかる男だから云々"

と語れる人もいるだろうが。

 

大半の人間は、予測バイアスにより、高価なワインで甘美な味わいを感じる。

 

良いか悪いかはさておき、

人とはそういうものである。

 

そんな事を実験結果と共に紹介してくれる本。

 

「予想どおりに不合理」

行動経済学が明かす 「あなたがそれを選ぶわけ」

ダン・アリエリー

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本屋で出逢った本ですが。

実に興味深く。

出逢いをありがとう!本屋さん、ありがとう!

 

本作で紹介している実験に

・ビールに酢を加えて被験者に飲んでもらう

との実験がある。

 

ビールに酢?と言われれば、

誰もが不味いと予測する。

やってみようとも思えない。

 

多くの人は、ビール with 酢 に魅力は感じないであろう。

つまり、マイナスの予測バイアスが発生する。

 

実験の内容は簡単だ。

・事前に酢を加えた事を教えてからビールを飲んでもらう。

・酢を加えたと知らせずに、新種のビールとして飲んでもらう。

 

つまり、

マイナスのバイアスがあるかどうか、の違い、である。

マイナスのバイアスとは、ビールに酢を加える = 不味くなるに違いない、との予測である。

 

実験結果。

・事前に酢を入れていると知らせるとビールは不味く感じる

・知らせなければ、美味しく感じる(人もいる)

 

ビールに酢を入れたと知りながら飲むと不味く感じるし、

知らないで飲めば、新種のビールとして美味しく感じる、

のである。

 

この事を予測の効果、として紹介しているのだが。

経験則的に、そのような事が起きるのはわからないでもない、と思うのである。

 

以下、個人的な意見。

味の違いがわからない人が高級ワインを飲んでも意味がないか?

と問われると、そんな事はないのであって。

 

味の違いが結果、わからなくても、

予測(期待)のバイアスは確実に発生するので。

結果、同じ味でもお金を払えば美味しくいただける、のである。

 

その事、当人の幸せ、との観点からみると、お金を払った価値はあるのでは?と思ってしまうのである。

 

お酒は雰囲気によりけり。

高級である事は質が伴わなかったとしても意味がある事である。