のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

「人は無意識に様々なメッセージを発信し続けている。」

ビジネスパーソンは、いったことや、やったことだけではなく、いわなかったこと、やらなかったこともメッセージになる」

「人は無意識に様々なメッセージを発信し続けている。」

 

これはわかるんだよな。

背中を見せる、ではないけれど。

言葉にする事だけが、

自分が発信する事ではない、と思う。

 

世の中において、

話しかけづらい雰囲気、とは、害悪である。

 

新入社員の頃に経験した事として、

上司から

「これ大至急調べておいて」

と言われたので、

最速で調べて、報告しに行ったら、

「この報告、今じゃなきゃダメ?」

と言われた事。

いやどっちだよ。

 

あれがなかったら、

もう少し、引っ込み思案じゃなかったかもしれないなと思いつつ。

ただ、あれのおかげで誰かに優しくできるのだとも思うのだけれど。

 

その当時は経験値がなかったので、

タイミング悪かったのかなぁ、と反省したのだけれど。

今思うと、無茶苦茶である。

 

詰まるところ、

世の中には矛盾した事を言う人間がいる。

ただ、矛盾した事を言っている人は、

自分が矛盾している事に気づかない。

なんともはや、話しても無駄な人は世の中に存在する。

悲しい事なのだけれど。

ストレスゼロの生き方

時々、自己啓発本を読みたくなる。

人生を歩んでいく上で、

平静を保つために、

真っ当な事を、

全力投球で投げてもらいたくなる。

それを、

バチっと受け止める事で、

時々、人は正しい道に戻る事ができる。

 

自己啓発本ってのは、大体、正論が多い。

 

正論とは・・・

新明解国語辞典で引いてみると。

正論

筋道の通った、正しい議論(主張)

多くは、実際には採用されたり行われたりすることが無い。

・・・

後半の部分での斬り方はなかなか強いものあり。

 

ただ、正論とは、必ずしも、正解ではないのだけれど。

時に、道標としては確固たるものとなる。

砂漠で遭難した人が北極星を頼りにするかのように。

・・・

(余りにベタな比喩なので言い換える。)

小学一年生の男の子が大好きな先生に諭されるように。

・・・・

 

「ストレスゼロの生き方」

Testosterone

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内容を引用。

人間関係、お金、仕事、健康、将来。あらゆる悩みをブッ飛ばす!

SNSで熱狂的支持を集めるカリスマが書き下ろした自己中心主義のススメ。 

 

著者に対しても引用しておく。

Testosterone(テストステロン)
1988年生まれ。

学生時代は110キロに達する肥満児だったが、米国留学中に筋トレと出会い、40キロ近いダイエットに成功する。

大学時代に打ち込んだ総合格闘技ではトッププロと生活をともにし、最先端のトレーニング理論とスポーツ栄養学を学ぶ。

現在は社長として働きつつ、筋トレと正しい栄養学の知識を日本に普及させることをライフワークとしている。

2014年より始めたツイッターは2019年10月時点でフォロワーが88万人を突破。

 

本作。

結構、いい事が書いてある。

いい事ってのは、そりゃそうだ、と思うのだけれど、

形として提示されると、

それは、言霊に似ていて・・・

引き寄せられる部分がある。

 

個人的、

一番刺さったのが36ページ。

すべての人とわかり合えると思うのを、やめる

世の中にはどうしても「話の通じない人間」ってのがいる。

「真摯に話をすればわかり合えるはず」と考えるのは素敵だが、その考えだと話の通じない人間に出会ったときに多大な心理的ストレスを受けるハメになる。

真面目で優しい人ほどこの罠にはまってしまうので要注意だ。

「世の中にはわからない人間がいる」

と認識しておこう。

 〜

話が通じない相手というのは地震とか台風みたいなもん。

出会ったら運が悪かったと思ってやり過ごすのが一番だ。

 

これはだいぶ気持ちが楽になった部分ありて。

個人的にも経験がありて。

どう考えても、

僕が言っている事が正しかったとしても、

子供に何かを教えるように忍耐強く、

みかんの白い筋を一本一本丁寧に取り除くように、

説明したとしても。

話が通じない場合がある。

 

そんな時には、上記の言葉を思い出すようにする。

・・・

話が通じないで思い出したのが。

犬養毅さんの「話せば分かる」との言葉である。

世の中の人が全て「話せば分かる」のであれば、

犬養毅さんは死ぬことはなかったのであろうか。

 

 

 

一人称単数 村上春樹 〜品川猿の告白について〜

村上春樹の新作「一人称単数」。

短編集である。

 

収録作は下記のとおりである。

「石のまくらに」

「クリーム」

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

「『ヤクルト・スワローズ詩集』」

「謝肉祭(Carnaval)」

品川猿の告白」(以上、「文學界」に随時発表)

「一人称単数」(書き下ろし)

 

特に最後の作品である「一人称単数」はインパクトがある作品だと思うが、

今回は、その中の”品川猿の告白”について。

 

品川猿の告白のあらすじは、

群馬県鄙びた小さな旅館で言葉を話す猿に出会う話である。

 

話す猿?

と言われると、

どうしても猿の惑星的な話を思い浮かべるが、

本編に登場する猿は鄙びた旅館に似合う哀愁の漂う猿である。

 

「ところで君には名前はあるのかい?」と僕は尋ねた。

「名前というほどのものは持ち合わせてませんが、みなさんには品川猿と呼ばれております」

 

そんな品川猿と主人公と僕は、旅館でビールを酌み交わす。

その中で、

品川猿がとある告白をするのが、本作の「品川猿の告白」である。

・・・

その告白とは、品川猿の業に近い。

人の名前を盗む猿なのである。

「〜 言い訳するのではありませんが、私のドーパミンが私にそう命じるのです。ほら、いいから名前を盗んぢまえ、なにも法律にひっかかるわけじゃないんだから、と。」

名前を盗む、とは何だろう・・・と思うかもしれない。

その観念は本作の中で品川猿が告白してくれる。

 

名前。

同一のグループに属するかどうか、

また、同一グループの中で同じ個体であるかどうか、の認識に役立つように付けられる象徴的記号。

 

誰かの象徴的な記号を盗む。

品川猿は言う・・・

「はい、それはある意味では究極の恋愛であるかもしれません。しかし同時に究極の孤独でもあります。

言うなれば一枚のコインの裏表出会う。そのふたつはぴたりとくっついて、いつまでも離れません。」

 

品川猿の告白”をどう考えるかは、

読者に委ねられる。

・・・

「〜しかしたとえ愛は消えても、愛はかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。〜」

引用が多くなるのは、言葉が珠玉であり美しいからだと思う。

 

この作品に関連して、

東京奇譚集

にも名前を盗む品川猿が登場する。

なので、

僕は「東京奇譚集」を再読して、村上春樹について思った事を、まとめて見たいと思う。

 

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例えば、世界に歪みがあるとして、

歪みとは目に見えないが、

確実に存在する何か違和感のようなもので。

村上春樹は、

その歪みを、歪み自体を描くことで表現するのではなく、

歪み以外の何かを描くことで浮き彫りにする作家だと思う。

とても抽象的で、

核心を掴めない表現であるのだが、

そんな事を思った。

 

 

一人称単数 〜村上春樹は読書を体験にまで引き上げる〜

「一人称単数」

村上春樹

 

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6年ぶりに放たれる、8作からなる短編小説集。

 

「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。

しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。

そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。

そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。

そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。

 

発売日。

近所の書店さんに行き、購入した。

流石に、購入できないような事はないだろうと思いながらも、

実際に並んでいるのを見たときは嬉しく思った。

僕はこういう景色に心の底からじんわりとする喜びを感じる。

新刊の単行本を発売初日に買ったのは久しぶりである。

 

単行本の重みは、読者へ気詰まりに似た緊張感を与える。

一言一句漏らさずに読んでやろう(感じ取ってやろう)との気持ちを抱かせる。

それは、劇場で観た映画がある種の特殊性を持った体験としての思い出に位置付けられるのと似ている。

単行本で読んだ本には、文庫のそれと、少し違った趣があると思う。

 

小説とはあくまでもフィクション。

虚構の世界である。

ただし、その虚構の世界は僕を没入させる。

強く、確固として堅牢な体験として自分の中に残る。

そして、生物の死体が長い年月をかけて石油になるかのように、

生きるための核となり、エネルギーのようなものになる。

ああ、僕は小説が好きだし、

村上春樹が好きだ。

読書を体験にする事ができる作家であると思う。

 

美しくて世界にただ浸っていたいような小説に出会った時に、

そこに、考察とか解釈とかテーマを読み解く義務はあるのだろうか?

”この小説でこんな事を表現したかったに違いない”とか。

”テーマは〜で云々かんぬん。”

・・・

小説には時に言葉にできない感情の動きがある。

だからこそ、僕は小説を読むのだと思う。

・・・

8作はどれも良かった。

ただ、

ウィズ・ザ・ビートルズ

品川猿の告白

一人称単数

は格別。

 

なんで格別だったかを考えるのはまた次の機会にするとして、

今は読書体験に浸りたい。

 

一文、引用する。

 

それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。

今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。

しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。

そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。

森の木の葉を巻き上げ、薄の野原を一様にひれ伏させ、家々の扉を激しく叩いて回る、秋の終わりの夜の風のように。

 

これは先に挙げたお気に入りの作の一文ではないのだけれど。

ああ、村上春樹を読んでいるなぁ、と改めて思う一文であった。

 

村上春樹について

村上春樹を読むと、

大学時代がフラッシュバックする。

これは僕のあくまでも個人的な感慨であり、万人に共通するものではない。

ただ、2020年に33歳を迎えた大卒の男性からすると、

ある程度、共通する事かもしれないと思う。

それは、僕が大学時代に、

何かを成し遂げなければならないとの呪縛から逃れるための唯一の方法が読書であったからでもあるし、

逃れる場所として、"村上春樹"が一番心地良かったからでもある。

 

散りばめられたカッコいい比喩、

自分が別の次元に漂っているかのような没入感。

紡がれる言葉により広がる世界観は、

掴めそうで掴めない、雲のようなものである。

 

思い出す大学生の頃、「海辺のカフカ」を読んだ衝撃。

 

新型コロナウイルスの影響で、

家で過ごす時間が増えた。

それは大学生の時に、

僕自身を包んでいた空気感とすごく似ていて。

 (共通しているのは時間があるって事)

 

だからなのかもしれないが、

僕は今、再び村上春樹の作品を読み漁っていて。

STAY HOMEの時間を好ましく感じている。

それは、

山道に迷って、途方に暮れた挙句、

見上げた空が満点の星空だったようなものであろうか。

風の歌を聴け 村上春樹 

風の歌を聴け」 村上春樹

 

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「風の歌」とは何か?

 

村上春樹のデビュー作である。

ノルウェイの森」「海辺のカフカ」等の作品生んだ日本を代表する作家だ。

ノーベル賞候補として話題になる事が多い作家のデビュー作。

読み直す意義はあるだろう。

 

物語は、29歳の"僕"が21歳の頃を回想する形で進む。

"僕"が過ごした18日間の話である。

青春の1ページを描いた作品といっていい。

 

しかし、さほど話の展開があるわけではない。

友人の鼠、ある女の子、バーの店長などが登場するが、どの人物も謎めいている。

掴みどころがない小説である。

 

読後、思い出そうとするのだが思い出せないような感覚が残る。

あと少しで、何かに届きそうなのだが、届かない。

記憶を辿ろうとするのだが、ぼんやりとしたものしか掴めない。

要するに、

よくわからないまま物語が終わってしまったのだ。

散りばめられた印象的なフレーズだけが頭に残った。

物語の核もわからなかった。

これが最初の感想である。

"あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。"

 と"僕"は書いている。

全くその通りだ。物語は通り過ぎてしまった。

本当に風のようである。

しかし、肝心の"歌"は何だったのだろうか。

 

"風の歌を聴け"と言いながら、"聴けなかった"のである。

そもそも、"風の歌"なんか聴けるわけがない。

"ビュービュー"吹くだけである。

「ふざけるな!」とそこまで思い、

ふと、本書は、聴けないものを聴こうとする事に意味があるのではないかと考えた。

 

冒頭で、"僕"は、

"文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎない。"

 と書いていた。

つまり、物語は、

 "僕"が"風の歌"を聴こうとする試みに過ぎないのだ。

ならば、"風の歌"は"自己療養のための何か"となる。

 

"風の歌を聴く"とは、自己との対話なのではないだろうか?

心の奥底に眠ってしまった記憶、

もしくは、押し込めてしまった記憶を思い出す行為だ。

そう考えれば、物語がよくわからないまま終わるのも納得できる。

 

"僕"は、ある問題を抱えている。

それを解決するために、過去と対話する。

しかし、それは"風の歌を聴く"ようなものであった。

本書は自己の内奥との対話で大切なものを見つける難しさを描いた物語とも読める。

 

"人生は風のように過ぎ去っていくものかもしれない。"

僕自身にとって大切なものが何であったかを思い出そうとする。

僕の"風の歌"は聴けるのだろうか。

そう考えた時・・・

僕はもはや村上春樹の術中にはまっていた。

自分の内奥へと深く沈もうと吸引される事こそ、

村上春樹の小説が持つ力である。

 

大切なものを見つけようとするのに見つからないもどかしさ。

比喩に彩られた表現の巧みさ。

これは村上春樹の他の作品にも通ずる根幹である。

彼の作品の原点として十分に楽しめる作品であろう。

 

・・・

これは、僕が大学時代に、

村上春樹風の歌を聴け」を読んで、書いた読書感想文のようなものである。

(授業で提出したので、メモではなく、本気で書いた)

もう10年程度、前の事なのだけれど、

この授業がなければ、今の職業に就く事がなかったと思うと感慨深い。

・・・

そして、今、僕は村上春樹の「風の歌を聴け」を再読した。

(新型コロナウイルスの影響で大学生みたいな生活をしているので。)

 

この感想文を書くために精読した作品であったので、

感想はそこまで揺らがず、

過去の自分、なかなか良いことを書いている、とニンマリとしたのが正直な所。

 

ただ、唯一、違っていたのは

夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナッツの殻をまきちらした。

との文章に、

何か意味ありげに、

まるで、人生で初めて書いた日記の1ページ目の最初の文字を書くように厳かに、赤線を引いた事ぐらいである。

この意味を本当の意味で理解できる友達(心友)は世界に一人だけであり、

今の僕を知っていて、大学生の頃よりビールを好きになったんだろうな、

と想像できる友達は両手に数えるぐらいはいると思う。

流浪の月 本屋大賞

"流浪の月"

タイトルが本書を読んだ後の感想を雄弁に物語る。

月明かりを眺める時、

人は何か物を思いにふけっている。

寂しくて、孤独が滲むような、そんな感覚。

月が滲ませる静謐なイメージが本作にはよく似合う。

 

小説とは、

名状しがたい感情に渦巻かれるもの。

感情を説明できないからこそ、読書の体験はやめられない。

・・・

本屋大賞受賞作品。

誰かにオススメしたくなる気持ちはわかります。

 

あらすじを引用

 

あなたと共にいることを、世界中の誰もが反対し、批判するはずだ。

わたしを心配するからこそ、誰もがわたしの話に耳を傾けないだろう。

それでも文、わたしはあなたのそばにいたい―。

再会すべきではなかったかもしれない男女がもう一度出会ったとき、運命は周囲の人を巻き込みながら疾走を始める。

新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。

 

 

とある誘拐事件の、

犯人と被害者の物語。

・・・

主人公である更紗は小学性の頃に、当時大学生であった文に誘拐される。

二ヶ月間に渡る誘拐。

ただ、誘拐は、どちらかと言えば、更紗自身の望みであったと言って良い。

 

更紗は誘拐される事で救われた。

 

それは読者ならば誰もが感じる事。

ただし、世間はそういう捉え方をしない。

誘拐者とされる文はいわゆるロリコンであり、幼児愛好者である。

(これは物語の中で語られる。)

 

幼児愛好者に誘拐された女児。

これを取り巻く報道。

そのストーリーがどのような語り口になるのかは言うまでもないだろう。

幼児愛好者の犠牲者である更紗、との固定観念が世間の捉え方となる。

 

本作は、その世間の目と、実際に更紗が感じた事の中で揺れ動く物語、である。

その揺れ動く中での語り口に読者は引き込まれる。

 

圧倒的に主観的な物語と思う。

それでも、文、わたしはあなたのそばにいたい

読者は、

この言葉に極端に主観的な盲信性を感じる。

ひどく、視野の狭い、盲目性。

 

ただ、その一方で・・・

それだけが、自分を救う唯一の方法であったとしたら?

闇の中で差し伸べられた手を信じるのではないか?

と思う。

 

完璧な客観性なんて存在しない。

人生の主人公はあくまでも主観である。

 

主観と客観の間で揺さぶられる物語。

心に響き、残る作品。

 

 

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