のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

顔馴染みの本屋

顔馴染みの本屋さんがある。

最寄駅の近くのこじんまりとした本屋だ。

商売は成立しているのだろうか?と不安になる時もあり、

二週間に一回程度、足を運んでいるうちに、店長さんが話しかけてくれるようになった。

 

大抵の場合、

「こんなのも読むんですね」

とか、

「これが好きだったら、これもいいかもしれません」

といった、わかりやすいありきたりな書店員と客の会話をするのだけれど、

この前行った時、なかなかエキサイティングな発言をいただいた。

 

僕が、とある小説家の本を買ったのだけれど、

店長さんが、レジでじっと本を見つめながら、

「この人の本って、こんな事言っちゃあれですけど、面白い時はめちゃめちゃ面白いのに、つまらないときはめちゃめちゃつまらないですよね。」

今まさに、とある小説家の本を買おうとしている僕に対してである。

・・・

”めちゃめちゃつまらないですよね!”

売り物を卑下する店員って、あんまりいないな、とその時、思ったのだけれど。

僕自身も、そのとある作家さんに対して、めちゃくちゃつまらない作品があるイメージだったので、

「そうなんですよね笑」

と反応していた。

・・・

共感はプラスの側面であっても、マイナスの側面であっても、

仲間意識を生むのである。

・あのアイドルが可愛い

・あのアイドルがムカつく

との話題は、共感さえ土台にあればどちらにせよ話題としては盛り上がる。

 

二人で映画を観に行ったとして、

大事なのは、映画が面白かったか?よりも、

二人の映画に対する意見が一致する事なのではないだろうか。

そんなことすら思ってしまう。

 

僕自身、誰かと映画を観に行った時に、

一番気にしてしまうのは、一緒に行った相手が映画についてどう思ったか?

なのである。

そういう意味では、

独りで映画に行った方が純粋に楽しめるのだけれど。

 

話は少々脱線したが、

店長さんがとある作家に対して放ったコメントは、

僕の中ではしっくりくるものがあって。

プラスの側にも、マイナスの側にも、語れる土台を持った時に、

その空間は心地良いものになるのだと思う。

 

ちなみに、その時買った本は、めちゃめちゃつまらない側の作品であったが、

その事を店長に告げるほどの勇気はまだ持ち合わせていない。

 

 

戦術家と戦略家

戦術のない戦略では、

勝利への道のりは遠い。

戦略のない戦術は、

敗北前の騒音である。

 

仕事をしている上で、

戦術と戦略の両方をきちんと理解している人をあまり見たことがない。

(弊社のレベルの問題なのかもしれないけど。)

僕が個人的に思う、後輩に対して一番教えたい事は、

戦術と戦略の違いであると思う。

 

過去にも触れたことがあるかもしれないが、

戦略とは、

森を切り開くとして、

どちらの方角に切り開いていくか?である。

 

森を切り開くとは、

例えば、好戦的な敵国への道を切り開く事になるかもしれないし。

はたまた、貿易国への道になるかもしれず。

切り開く方角を間違えれば、

身を滅ぼす事にもなりうる。

それが戦略である。

 

一方、戦術とは、

いかに効率的に木を伐採するか?

である。

純粋の戦術家は、森を伐採して結果どうなろうと知ったこっちゃない。

目の前の木を次々と伐採する事に照準を定める。

 

理想は戦略家に優れた戦術家をつける事なのだけれど。

実際、優れた戦略家は稀有な存在である。

ただし、優れた戦術家は多く存在すると思う。

 

故に、

常に戦略を意識する事、がまず第一で。

あなたが求められている戦略が何であるか、淀みなく言えないとするならば。

切るべき木を間違えている可能性があるのである。

 

最初はフリでいいよ。とりあえず笑っておこう。

最初はフリでいいよ。

とりあえず笑っておこう。

 

いい言葉だと思う。

楽しいから笑顔になるのではなく

笑うから楽しいのだ。

 

正論だと思うが、

なかなか難しい。

 

ただ、実践できるなら、それほど幸せな事はない。

幸せはアンダーコントロールである。

とりあえず笑っておこう?

 

確かにそれは、明日から出来ることである。

人は測定されるものにしか興味を持たない。

ビジネス書を読んでいると、

大抵の場合、特定の人の顔が思い浮かぶ。

残念な事に、悪い意味で。

悪い例でしか思い出さない人しか周りにいないので、

最近は結構、不遇の日々を過ごしているのかもしれない。

 

人は測定されるものにしか興味を持たない。

ビジネス書にて、提示された指摘。

至極、その通りだと思う。

 

人を数字で管理をする上で、よく考えるのが、

健康診断の話である。

 

健康診断とは、

健康であるために異常兆候を見つけるためのもの。

戦術と戦略の話で言うならば、

・戦略=長生きをする

・戦術=健康診断

との位置づけ。

 

健康であるためには、肥満は大きな敵である。

そのため、体重を測定する。

ただ、体重の測定とは、

身体の重さ、だけの話であり、

・筋肉質で重いのか

・脂肪で重いのか

かがわからない。

 

だから、体脂肪率のような尺度で測定するのである。

そうすれば、筋肉質の重さなのか、がジャッジできる。

 

測定できる、とは強い。

測定できなければ、管理できているとは言えない。

 

 

網の目のように、測定魔になるのもバカな管理者なのだろうが、

測定に意味を見出さない管理者もまたバカである。

 

アホな管理者ほど、自分が測定できていると信じ込む。

アホな担当者は自分の事を自己測定しない。

どっちもどっちなのだけれど。

「戦略がすべて」

戦略と戦術の違いについて、

初めて知ったのは、司馬遼太郎の「花神」である。

司馬遼太郎の小説が、ビジネス書として捉えられる理由だと思う。

戦略と戦術の違いを理解していないビジネスパーソンは大抵、ロクでもない事が多い。

 

戦略家は戦術家を評価し、

戦術家は戦略を知るべきである。

世の中には、

戦略を全く理解しない戦術家(自称)があまりに多い。

 

戦略を理解せずに、優れた戦術家でもない。

戦術家であっても、戦略を理解していない。

戦略家であっても、戦術を理解していない。

そんな人ばかりである。

 

戦術と戦略を解説する上で、

・森を伐採する事業があったとする。

・森をどちらの方向に伐採していくか?を指し示すのが戦略

・木の伐採の仕方を考えるのが戦術

である、との指摘を読んだ事がある。

 

どれだけ効率的に木を伐採したとしても、

伐採する方向を間違ってたとしたら何も意味がない。

 

戦術家が揃っていたとしても、

正しい戦略で導かないと、意味がない。

 

「戦略がすべて」

瀧本哲史

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ビジネス市場、芸能界、労働市場、教育現場、国家事業、ネット社会……どの世界にも各々の「ルール」と成功の「方程式」が存在する。

ムダな努力を重ねる前に、「戦略」を手に入れて世界を支配する側に立て。『僕は君たちに武器を配りたい』がベストセラーとなった稀代の戦術家が、AKB48からオリンピック、就職活動、地方創生まで社会の諸問題を緻密に分析。

我々が取るべき選択を示唆した現代社会の「勝者の書」。

 

そもそも、

戦略と戦術の違いについて、ピンとこない人は絶対読むべきである。

そこに対する理解力の有無は、おそらく会社人としての人生を大きく変える可能性するある、と思う。

 

ところが残念なことに、

「戦術の失敗は戦略で補うことが可能だが、戦略の失敗は戦術で補うことはできない」

 

例えば、

森を伐採して、隣街への道を開くとして、

どれだけ木を効率的に伐採して、普通ならば一ヶ月かかる伐採工程を三日で成し遂げる戦術家がいたとして。

ただ、隣街は凶悪な武装国家であり、伐採した道を通って攻め込んできたとする。

それは、

隣街へ道を開く、と決めた戦略自体が間違っているのだと言われると、

上記の言葉も納得がいくのではないだろうか。

 

「男と女 なぜわかりあえないか」 橘玲

「男と女 なぜわかりあえないか」

橘玲

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「女と男」は人類の最大の関心事ともいえる。

この永遠のテーマが最新のサイエンスによって解明されつつある。

野心的なタブーへの挑戦のなかから、意外かつ誰でも楽しんで読める最前線の研究を紹介。

果たして女と男の戦略のちがいとは―。

 

本作で、なるほどと思った点。

男・女の違いは、

”後世に遺伝子を残すとの生命として最も重要とされる戦略”に対する戦術的なアプローチの違いと捉えている事、である。

つまりは、子孫を残す上で有効な手段を考えた時に、男女の違いとリンクする部分がある。

 

男女は子孫を残す上で、役割が異なる。

 

以下、少々、無粋な話になるが、

子供を産むまでの過程において、

・男は一度、セックスをすれば自分の子孫を残せるかもしれない。

 

そのため、極端な仮定で、

1回のセックスで相手の女性を妊娠させる可能性が10%だとして、

(何の根拠もない確率である点を注意)

1日1回異なる相手と取っ替え引っ替えヤリまくれば

1年で365日×10%=36人の子孫を残せる可能性がある。

そして、男が枯れるまで、と考えるならば、

少なくても30年は現役でいるとして、

36人×30年で、1000人以上の自分と血がつながった子をこの世に残す事ができる。

 

これは、あくまで理屈上の話で、

実際的に考えると、

毎日、異なる女性が妊娠してもいい覚悟で行為に及んでくれるのは(しかも女性が積極的に妊娠しようとしないと難しいと思われる)現実的ではないと思う。

※レオナルドディカプリオでも・・・(無理だ)と続けようと思ったのだが、実際どうなのだろう?

 

ただ、女性はどうか?と言うと、

物理的に不可能である。

1000人以上の子供を産む、と考えると、

もはや、SFであり、ようこそエイリアンの世界へ!的な話になってしまう。

 

子孫を残す上で、

・男はコストが極めて低い

・女はコストが極めて高い

※この場合のコストとは、時間、労力などを指す。

 

 

本書は、

男女には、上記のような違いが、まず明確にあるのだと指摘する。

その前提の上で、

・男は競争をする(全員がライバルになりうる)

・女は選択をする(誰を父親とすれば育てる上で良いか)

方が、

子孫を残す上で、有効だったと指摘する。

 

本作については、結構、過激な指摘もあると思う。

男女平等的な観点の話は繊細な問題を含んでおり、

場合によっては人を不快な思いにさせる。

 

僕の考えを言えば、

生物学的に異なるのだから男女は違うものであると思う。

ただ、その立場の違いを踏まえた上で、1人の人間として、個人として、向き合う事が1番大切な事だと思う。

かえるくんがみみずくんと闘って、東京を救うのである。「神の子どもたちはみな踊る」村上春樹

かえるくんが主人公のお話である。

かえるくんが主人公であり、

みみずくんと闘って、

東京を救う話である。

 

神の子どもたちはみな踊る村上春樹

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に収録されている一編。

「かえるくん、東京を救う」

 

「かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい」

と声をかけてくれることが必要なのです。

 

「それでは昨夜ぼくが言ったことを信じていただけますか?僕と一緒にみみずくんと闘ってくれますか」

 

あらすじを紹介すると、

かえるくんが主人公のお話である。

かえるくんが主人公であり、

みみずくんと闘って、

東京を救う話である。

との繰り返しになる。

 

冒頭の一文を引用した方が話が早いかもしれない。

片桐がアパートの」部屋に戻ると、巨大な蛙が待っていた。

二本の後ろ脚で立ち上がった背丈は2メートル以上ある。体格もいい。身長1メートル60センチしかないやせっぽちの片桐は、その堂々とした外観に圧倒されてしまった。

「ぼくのことはかえるくんと呼んで下さい」と蛙はよく通る声で言った。

 

村上春樹は、こんな物語をなぜ紡げるのであろうか。

純粋にそう思う。

家に帰ると、かえるくんが待ち受けている世界観。

しかも、かえるくんがみみずくんと闘って、東京を救うのである。

 

この物語を読んでも、世界は変わらないかもしれない。

貴方は救われないかもしれない。

でも、本作を読み終えた時、

僕はどうしてもかえるくんに対する推し量る事のできない思いやりを感じた。

立ち向かう勇気、それを支える優しさを。

それは、

僕の中にかつてない感情でありながら、

たしかに今は心の中に在る感情である。

 

かえるくんは〜の象徴であるとか。

みみずくんは〜のメタファーだとか。

文学的な語り口ならば、そういう着目をしなければならないのかもしれないけれど。

僕自身は本作に対して、

かえるくん、との異形の存在を、

思いを寄せる事のできるヒーローのように扱った事に着目する。

 

もう一度、言う。

”かえるくんがみみずくんと闘って、東京を救うのである。”

少し変わったヒーローの物語。

だけど、僕の中で、かえるくんの事は忘れられない存在になったと思う。