アメリカ型ポピュリズムの恐怖 斉藤淳
アメリカのトヨタ叩きについて。
2009年秋からの急加速疑惑に絡むトヨタバッシングを読み解く。
大規模なリコールに発展した事件である。
筆者は当時、ニューヨーク駐在の通信社記者であった。
最前線の人物が振り返るトヨタバッシング。
文中から引用する。
「筆者はアメリカでのトヨタ車の急加速騒動を日夜観測した一介の記者に過ぎない。しかし、一介の記者だからこそ保身を顧みることなく、あえてこの書で真正面から大国アメリカの社会構造問題に一石を投じたいと思う。」
まず、現地アメリカで状況をリアルタイムに追っていたとの点が重要。
リアルタイムに情報を得る事ができる人は限られている。
且つ、おもしろいのは…
振り返った時にどうあるべきだったか?とのを筆者が考えている点である。
常に筆者は内省の目を持っているように感じる。
さて、トヨタ叩きについて。
簡単にまとめると…
①トヨタ製の自動車で人命が失われる事故があった。
②確たる根拠はないがトヨタ製の自動車に欠陥があるように扱われる。
③メディアも含めて、バッシングに火がつく。
④リコール、そして、トヨタ社長がアメリカの議会公聴会に呼ばれるに至る。
と、まあこんな感じである。
ポイントは、②の”確たる証拠はないが”である。
具体的にいうと、事故はブレーキが効かなかったため発生した。
何故、ブレーキが効かなかったのか?
トヨタ製の自動車に欠陥があったのか?
との話になるのだが…
調査の結果は「規定外のフロアマットを設置しており、引っかかったため」であった。
※ただし、100%の証拠ではない。
つまり、本当にトヨタ側に原因があると断言できない状況の中でパッシングは広がっていったのである。
「裏づけがないままに、センセーショナルな報道がされて火がつく」との話は現代社会の中では決して珍しい話ではない。
問題は、何故、センセーショナルに扱われたのか?との点にある。
何故、トヨタ叩きが加熱したのか?との点にある。
そして、その前のサブプライムローン危機。
2008年秋〜2010年頃までにかけて…
その後…
③トヨタ叩きが起きる。
この構図は一見、因果関係がないように見える。
しかし、筆者は①サブプライムローン問題、②GM破綻。がなければ、③トヨタ叩きはなかったであろうと語る。
センセーショナルに報道されパッシングが加熱する事がなかったであろうとの意味である。
一言でいうと、国内産業が瀕死状態であるのに…日本企業が伸びる事に対して反感を抱く空気が醸造されていたのである。
これについては第4章「売れすぎに注意」、第8章「不況時に注意」に色々と書いてある。
あ〜なるほど、と思ったのは…
”空気によって時代が向かう先はこんなにも変わるのか…”と。
同じ事件が起こったとしても、醸造されている世間の空気で扱いが変わる。
STAP細胞の捏造事件が話題になっている中、同じような事が起きれば更に話題になるのと同じである。
ここで考えるべきは…
"空気をいかに読み取るか?”である。
筆者もまた同じ思いがあり…
トヨタ叩きの渦中にいる中、アメリカメディアの言い分が正しいのか?トヨタの言い分が正しいのか?を悩み続けたという。
更に、日本に通信社として記事を送る際、どう伝えればいいか?等。
当時を振り返る辺りはべらぼうにおもしろい。
例えば、同じ事件であったとしても、空気によって世間の反応が変わるとしたら…
情報発信者たる者は、空気を鋭敏に感じ取る能力が必要なのではないか?とも思う。
ただ、本書の一番の魅力はというと。
”トヨタ叩き”から得た考察を”そもそもアメリカ社会・ポピュリズム”とは何か?とのレベルまで引き上げている事である。
つまり、民主主義が根付いたアメリカ社会では、今回のような大衆・メディアが醸造する空気がダイレクトに政治の分野まで届く…と。
その結果どうなるか?
そもそも民主主義とは?
ポピュリズムに根ざしたアメリカ社会の構造は、大衆の怒りに政府及び議会が迎合する傾向にある…と。
個人的な意見を言わせてもらえば、”民主主義とは多数決ではない”と感じた。
民主主義を履き違えるととかく多数決で全てを決めるように語られる。
ただ、本質は”議論を尽くす事”にあるのでは?と。
アメリカたる社会を考える上で良書。
途中、同じようにバッシングにあったアウディとの比較。
トヨタの対応がいかに大人であったか?の記述のかなりおもしろい。
おすすめである。
※アメリカの構造との点で、同じような事がID論や進化論を巡る争いでも起きていた、この点についてはまた後日考えよう。