「ペンギンハイウェイ」
森見登美彦さん
「怒りそうになったら、おっぱいのことを考えるといいよ。そうすると心がたいへん平和になるんだ。」
「ずっと考えているわけではないよ。毎日ほんの30分ぐらいだから」
本文 p51から引用。
・
・
・
ただ者ではない。
もう一度言う。ただ者ではない!
悟りの境地(色欲の話は置いておく)に達したような発言。
世にある怒りの感情を超越したかのような真理。
聞いて驚くな。
この発言をさらりと言ってのけた本書の主人公アオヤマ君は小学4年生である。とんでもない大器。
しかも、この発言・・・
いじめっ子であるスズキくんに自分のノートにおしっこをひっかけられた後の発言である。
驚嘆!感嘆!小学4年生にしてこの境地。
釈迦の悟りが35歳である。
あまりに早熟。言葉もでない。
物語はこう始まる。
「ぼくはたいへん頭が良く。しかも努力をおこたらずに勉強するのである。だから将来はきっとえらい人間になるだろう。」
さて、この時点で、賢明なる森見登美彦さんの読者は、この少年に何を思うか?
「ほっほっほ、阿呆大学生の小学生verか!」と思うかもしれない。
※注意
(というより、「恋文の技術」→「太陽の塔」→「四畳半神話体系」との道を歩んできた僕はそう思った。読んでない人はごめんなさい。)
なんせ、悟っていようがいまいが、1日30分はおっぱいの事を考えている小学4年生である。
計算しよう。
1日30分= 1年で10,950分。つまり、182.5時間、要するに、約8日・・・
行動を起こしたら、即時強制猥褻容疑で逮捕される可能性がある。時限爆弾のような小僧だ。
・・・
が、しかし!
本書の主人公、アオヤマ君は一味違う。
この少年、本当に賢いし、カッコイイのである。
これが、他の森見登美彦さんの作品と異なる新境地と言われる所以だろうか?
とにかく、アオヤマ君がこの調子で大学生になったとしたら、阿呆大学生にはなりそうな匂いがない。
ただ、冒頭の発言の通りちょっぴり変わった子である。
本書はタイトルの通り、ペンギンの話である。
そして、SFでもある。
加えて、アオヤマ君と歯科医院のお姉さんの話でもある。
ストーリーはアオヤマ君の住む街に突然ペンギンが現れるところから始まる。
アオヤマ君はどうやらこの謎に歯科医院のお姉さんの不思議な力が関わっていることを知り、研究を始めるのである。
・・・
解説から一文引用する。
"最後のページを読んだとき、アオヤマ君とこの本を抱きしめたくなる"
言い得て妙。
そうだよね、うんうん。
・・・
おっぱいの話から180度 話が急展開している事は認める。
どこに抱きしめたくなるエピソードがあるのか?と思うだろう。
何一人で納得しているんだ!との批判も受け入れよう。
ただ、読めばわかる。この話。
ものすごく愛おしい。
読み終わると知る。思い出して泣きそうになる自分がいる事を。
"とにかく読め"との最終手段にでてしまったが・・・
最後に、こんな表現でこの本の良さが伝わる、と信じて、思った事を率直に記す。
本を読んで思い出したのだが・・・
小学生の時、姉のいない僕はお姉ちゃんが欲しかった。
優しいお姉ちゃんが欲しいと猛烈に思っていた時期があった。
ただ、それは、隠し子がいたとか、両親が再婚して〜、等の複雑な事情がなければ成立し得ない事である。
だから、"手の届かない愛おしさ"みたいな感情があって。
小学生の僕が感じた瑞々しくてまっすぐな気持ちがあった。
女の子が"大きくなったらパパのお嫁さんになる!"と言っているのと近いと思う。
だけど、現実に実現しないからいつしか忘れてたし、忘れようともしていた。
その感情が、この本を読んで、おぼろげに蘇った。
そんな事、今まですっかり忘れていたのだけど。
本は感情を生み出すものだと思う。
だけど、この本を読んだ時に生まれた"抱きしめたくなるような気持ち"は、"本によって生み出されたのではなく、本によって忘れられていた自分の感情が蘇ったもの"なんじゃないかな・・・と思った。
そう、自分の忘れていた大切な思い出を抱きしめているような・・・。
小学校時代の僕を抱きしめてやる事はもう決してできないけれど。
読後、小学校の頃の自分を抱きしめているような気持ちになった。
だから、僕はこの本がとても好きになったのである。