理由なんてどこにもない。「謝るなら、いつでもおいで」
物事には、原因と結果があるべきだと思う。
もしくは、あって欲しいと願っている。
何故か?
理由のない事が一番恐ろしいからである。
小学生6年生の少女が明確な殺意を持ってクラスメイトをカッターで殺したならば、理由がなければならない。
いや。誤解を恐れずに心情を曝け出す。
心の底で"加害者の家庭に何かしらの落ち度があって欲しい"と思っているのかもしれない。
父親が酒に溺れて虐待、幼少期に親が離婚して愛情が・・・等。
"家庭の複雑事情により悲劇が発生してしまった"とのストーリーは安心するのである。
何に?
"自分にはそんな事は関係ない事だ。"と。
もしくは、"自分には縁のない話である。"と。
何らかの落ち度があった家庭に起こりうる事件なのである、と。
僕自身は子供はいない。
将来を現時点で答えるなら、YES。
子供を欲しいと思っている。
そこには、子供がどう育つか?の明確なイメージはない。
ただ、幸せになって欲しいとの漠然たる思い。
そして、善良に生きていれば、幸せになれるような幻想がある。
・・・
もちろん、子供が殺人事件を起こしたら?なんて事は考えない。
・・・
僕はこちら側の人間で、犯罪事件が起きたのはあちら側の人間?
でも、果たして本当にそうなのか?
・・・
犯罪事件を取り扱う本を読むと、起きた事の複雑さを知る。
マスメディアの型にはまった加害者像・被害者像。
"難しいね、それ"で片付く問題ではない。
何故起きたか?に答えがないから。
答えを失った時、幻想も霧散する。
そう、起きない理由はないのである。
可能性は低いのかもしれないけど。
「謝るなら、いつでもおいで」
川名壮志
本書は、佐世保小6同級生殺害事件を扱う。
友だちを殺めたのは、11歳の少女。被害者の父親は、新聞社の支局長。僕は、駆け出し記者だった―。世間を震撼させた「佐世保小6同級生殺害事件」から10年。―新聞には書けなかった実話。
"小学6年生の少女が殺意を持ってクラスメイトを殺害した事件。"
この一文で事件の特異性がわかる。
少年法にすら該当しない少女の殺人事件。
多くの人に衝撃を与えたであろう。
事件は何故起きたのか?を知りたいと思い、手に取った。
・・・
結果的には、わからない。
この事件に何故は欠落している。
秒針も分針も時針もない時計のように、あるべきものがない違和感だけが残る。
だけど、理由なんて語り得ない、のだと気づく。
事実だけがざらっとした手触りで存在している。
加害者の父親がこう語る。
"警察に呼ばれて佐世保署に行ったとき、「あの本を読みたいと笑顔で言っていた娘が何であんな事件を起こしたのか」ってずっと考えていました。
申し訳ありませんが、どうしてこんなことになったのか。私にはわかりませんでした。" P280
・・・
本書は、何かを理解するための本ではない。
理解しようとする過程がいかに苦渋に満ちたものであるかを知る本だ。
事実の重みと密度を推し量り言葉を失う。
正直、読むのが苦しい内容であった。
それでもなお、本書を薦めるのは、この本から受け取る重み(心に残る黒点のようなもの)に意味があると信ずるからだ。
"考えされられる"なんて陳腐な表現で終わらせてはならない。
"事件が残る"と表現しよう。
事実が沈殿し、存在する事を認識するようになる。
本書のポイントとして、2つほど挙げたい事がある。
一つは、犯罪事件におけるマスコミの立ち位置。
記者の葛藤について。
本書自体が新聞記者によって書かれたものである事による。
二つ目は、本書のタイトル「謝るなら、いつでもおいで」について。
これは、この事件を考える上で、重要な意味を持つ。
たどり着くまでの空白の時間に胸が詰まる。