快楽ボタンを押し続けるラット。
ある実験の話を読んだ。
実験用ラットの脳に電極を刺す。
電極はボタンにつながっており、押すと"ラットは快楽"を感じるようになっている。
ラットが自分でボタンを押せるようにしておくとどうなるか?
・・・
結果は少々寒気がするものになる。
※仕組みを説明すると。
・電極は脳の快楽中枢を刺激するようになっている。
・刺激される事によりドーパミンが放出される。
・ドーパミンにより快楽を感じる。
との仕組み。
※ここでいう"快楽"とは、セックス、食事などで得られる"快楽"と同種のものである。(これらもドーパミンの作用により快楽を得ている。)
・・・
"快楽ボタン"を自ら押せるラットは、ボタンを押し続ける。
それも、1回や2回押す程度の話ではない。
不気味なほどに連打する。
1時間に2,000回のペースで24時間押し続けたラットがいた程だ。
快楽を求めて1時間に2,000回ボタンを連打するラットの姿を想像すると気味が悪い。
ラットはあらゆる妨害工作をしても"快楽ボタン"を押し続ける。
・発情期のメスを隣にやっても無駄。
・ボタンに行くまでの間に電気ショックを与える障害を用意してもダメ。
・子供を産んだラットは、子供の世話を忘れてボタンを押し続けた。
・挙句の果てに、餓死するまで続けるようなラットが出てくる。
快楽ボタンを餓死するまで押し続けるラット。
ラットは"ボタンを押して快楽を得る事"が世界の全てとなっている。
生命は、生き延びるために必要な能力を身につけている、と思う。
例えば、記憶は過去に体験した危険な状態を回避するために身についた能力と考える事ができる。
同じ捉え方をすると、快楽は食事による生命維持や子孫繁栄に導くためとの答えは不自然なものではない。
では?
命を捨てても、なお快楽を得ようとする行為をどう解釈すべきだろうか?
実験のラットは、餓死してまでも快楽を得ようとした。
"快楽>生きる"との枠組みが成立している。
生きる事の上位に快楽がある。
快楽のためならば、命を棄てても良いものなのか?
ただし、ふと周りを見た時に、快楽に溺れて命を縮めている事なんていくらでもある。
いわゆるメタボリックシンドロームなど最たる例。
タバコも同じであろう。
そういうものなのだ。
快楽は世界の全てになりうる。少なくても命よりも大切なものに。
でも、あなただったらその快楽を得るボタンを押し続けますか?
と問われると答えに詰まる。
快楽とは何で、何のために存在しているのだろう。
快楽に溺れた命は、頽廃した哀れさを感ずるが、主観的には快楽の中にいるわけだからね。
なお、驚くべき事に上記の実験は人体を持って、同じような事がなされている。
結果を知りたい人は、この本を読む事をお勧めする。