快楽快楽/極楽極楽
極楽極楽、と言えば、風呂を思い浮かべます。
快楽快楽、と言えば、何やらいかがわしい感じがあります。
もし、とあるお店の看板に"快楽の館へようこそ"と書いてあったなら、完全に夜のお店、R18指定である。
極楽の館ならば、ご老人が満面の笑みを浮かべてそうだ。
(偏見に満ち満ちているかもしれないが)
はて。快楽に付き纏う影は何ぞや?
そもそも、人は快楽に全てを委ねる事を良しとしない。
快楽のままに生きようと思ったら、世の中、法に触れる事が多すぎる。
快楽を求めて自由に生きれば、いつか逮捕される。
とかく人は快楽を制限し、悪徳と考える方向に動く。
一体、全体何故なのか?
そんな事を考えていたら、面白い話を聞いた。
"悪行と善行"は神経学上同じ領域が活性化しているものが多い。
つまり、悪行も善行も同じ神経反応によって快楽を得ているのである、と。
例えば、悪行として挙げられているのが・・・
・甘くて脂肪たっぷりの食事
・金銭的報酬
・ある種の向精神薬(酒、アルコール)
善行として。
・趣味のエクササイズ
・瞑想や祈り
・社会的評価を受ける事
・慈善的な寄付行為
が挙げられている。
※善悪の基準が人それぞれである事はさておく。
そうなると
・"ああ〜今日はいい事したなぁ〜"と思った清々しさと。
・"×××に行って、○○○して本当気持ち良かったなぁ(背徳感あり)"
は脳内的には同じ事なのである。
※それぞれ何をしたかはご想像にお任せします。
善行を快楽と表現すると少々違和感がある。
だけど、脳の反応自体は同じ。
ならば、何が両者を分けたのか?
現在、なんとなく背徳感のある行為は社会的にそう刷り込まれていた結果である可能性はあると思う。
生まれた時に既にあった枠組みは確実に僕の思考を制限している。
なぜなら、脳はそういう風にはできていない、のである。
そんなわけで、快楽に溺れている皆さん。
あなた方の感じている快感は脳内単位では世間的に良い事とされる行為と同じです。なので、胸を張って快楽を得てもいいのかもしれません。
※ただ、実害がある快楽はダメ絶対です。
(必ずしも実害あり=背徳感ありにならないのが不思議なんだよなぁ。例えば、性に関する事とかね。)