常に"わたし"は1つである。
全てを決めているのは"わたし"。
明日、会社に行くのも自由。
行きたくなければ、行かなければよい。
決定権は"わたし"にある。
いつも、どんな時にも。
"全ては"わたし"が決めている"とは、現代社会の大前提だと思う。
そうでなければ、犯罪を裁く事ができなくなる。
もし、決定権が"わたし"にないとすれば?
(言い換えると、自分以外によって自分の行動が決定されているなら)
"わたし"が裁かれるのは理不尽になってしまう。
"わたしがやったんじゃない"との言い訳が成立する事になる。
さて、大前提であるはずの"わたし"がどこにあるのか?との問いを取り上げたのが本書。
「<わたし>はどこにあるのか」
著者:マイケル・S・ガザニガ
訳者:藤井留美
本書を読み解いていくと、<わたし>が霧散する。
そもそも"わたし"とは何であるか?
現代人ならば、脳の中にある、と答えるだろうか。
僕自身は脳が主権者であると思っていた。
国王の如く確固たる司令塔。
手を動かしたければ動かせる、走りたければ走れる。
何を行うにせよ、自由。
そして、王様は1人、つまり"わたし"である。
脳が唯一無二の"わたし"を生み出している、との認識であった。
しかし、本書を読むと、その認識が幻想である事がわかる。
筆者はこう主張する。
脳にはありとあらゆる局在的な意識システムが存在しており、その組み合わせが意識の出現を可能にしているのだと思う。
意識感覚はひとつにまとまっているようでいて、実は無数の独立したシステムが形成しているのだ。
ある瞬間にふと意識上にのぼる考えは、そのとき最も優位を獲得したものである。
脳内では、いくつもの意識システムが覇権を争って仁義なき闘いを繰りひろげており、それらを勝ちぬいたものだけに意識という賞品が与えられる。
さて、どういう事か。
意識とは1つにまとまっているように思えるが、決してそうではない。
並列処理の中に意識が発生しているにすぎない。
つまり、王様は幻想、との意味である。
脳の中には責任者がいないのだ。
突然、そんな話を聞かされると、突飛に思えるかもしれない。
だが、本書を読むと、見事に納得する。
では、何故、私たちは統一感を持っているのだろうか?
その事をインタープリター(解釈装置)との働きを持って説明する。
インタープリターとは?
一言で、"つじつま合わせ"である。
簡単な例で説明する。
・例えば、蛇を見て、驚いてパッと身をかわしたとする。
この時、当然、"自分は蛇を見て驚いて身をかわした"と解釈する。
もし、あなたが"何故、身をかわしたの?"と聞かれれば、"蛇が見えたから"と答えるだろう。
実際はどうか?
・意識は蛇を感知していない。
・無意識の中で動いている。
つまり・・・
①蛇が見えた。
②身をかわした。
のプロセスではない。
①身をかわした。
②蛇が見えた。
なのである。
これは、脳内の処理スピードの問題でもある。
通常の手続きでは蛇に噛まれてしまう。
だから、短絡的なルートで動きが処理されているのだ。
ただ、問題は、自分自身がどう感じるか?なのである。
脳は必ず。
"〜だから〜した。"の文脈を好む。
つまり、理由付けをするのだ。
だから、我々は、全ての材料が出揃った所で・・・
私は、蛇が見えたから身をかわしたのだ、と感じる事ができるのだ。
それが、解釈装置である。
この解釈装置のおかげで、我々は全ての事を"わたし"が判断しているように感じるのだ。
この事を深く考えれば考える程、幻想の中に"わたし"がいる事に気づく。
興味深く、且つ、思索の迷宮に入り込めるような本であった。