「くまちゃん」角田光代
「くまちゃん」
本作は連作短編フラれ小説である。
構成が面白く。
第一話の主人公がフラれる。
第二話はフった相手が主人公になる。
の繰り返し。
ネタバレ気味なのは承知だが。
三話目で辺りで誰しも気づくだろうし。
且つ、最終的にどうなるか?を楽しむ作品ではないと思うので。
フラれるのは辛い事。
刹那的に永遠の未来を信じたであろう相手との関係が簡単に崩れる。
もちろん、恋人同士であった時間の濃さにも比例するだろうが。
俗に言う、自分の一部をもぎ取られた感覚。
何故、私はフラれたのか?
大抵の(常識的な)カップルの場合、別れる際に話し合いの場が設けられる。
もちろん、様々な理由を告げられるのだが。
納得できる場合ってあるのかな?とも思う。
好きになった理由を問われた時。
"優しいから"と、とびきり陳腐な返答と同じようなもので。
(誰もがそんな簡単な事ではないとわかっている)
別れる理由なんて、そうそう簡単に説明できないと思う。
"フラれた人間"と"フった人間"の主観が連続して繰り返される本作を読むとそう感じる。
本作の妙味は。
フラれた人間が刹那的に世界の崩壊を味わっている一方。
フった人間は別の時間軸で新しい恋の始まりが描かれており(最終的にはフラれる、が)
その中で、かつてフった恋人を過去として思い出す点である。
具体的に言えば。
第一話のフラれた話。
→第二話は1〜2年後に第一話でフった主人公がフラれる話。
と時間的な段差がある。
なので、瞬間的なフラれた/フった、ではないのである。
時間軸のズレがある。
フラれた人はその瞬間を。
フった人はフった瞬間を過去に抱きながらフラれる、のである。
この軸のズレがフった/フラれたの繊細な関係を表現しているような気がしてならない。
フったフラれたの人間関係は同じ時間を共有していないと言えるかもしれない。
同じ今を生きていない、と表現したら良いだろうか。
それが恋人ではなくなるとの意味であろうし。
言葉で付け足す別れる理由よりもはるかに納得できる。
さて、本作の魅力としてもう一つ。
あとがきの角田光代さんの言葉がある。
フラれることについて書いた文章であるが、そのまま引用したい。
ふられることがいいことだとは思わないけれど、でも、旅を一回するようなことくらいのよさはあると思う。
ある場所を旅することによって、今まで知らなかったものを見る、食べたことのないものを食べる、親切な人に会ってうれしいときもあれば、だまされて地団駄を踏むこともある。
一概にいい思いばかりで旅を終えることはできないが、旅から帰れば、以前とは違う場所にいる自分に気づく。
ふられる、ということには、そのような面がたしかにあると思うのだ。
そして、恋が、自分にとって意味を持ったものならば、たとえ別れ際がどんなに嫌なものでも、またどんなにこっぴどいふられかたをしたとしても、ふられる以前の関係は、私たちを構成するあるパーツとして私たちの内に在る。もう、どうしようもなく、在る。
僕はこの最後の、一文が好きで。
フラれると、自分の身体がもぎ取られたかのような感じがする。
そして、フラれた事を否定したい一心から、フラれる以前の関係を帳消しにしたくなるのだが。
本気で誰かを思ったなら、もう絶対に以前の自分とは異なる。
全く影響を受けなかったとしたら、それは好きではなかったのだと思う。