「風の歌」とは何か?
村上春樹のデビュー作である。
「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」等の作品生んだ日本を代表する作家だ。
ノーベル賞候補として話題になる事が多い作家のデビュー作。
読み直す意義はあるだろう。
物語は、29歳の"僕"が21歳の頃を回想する形で進む。
"僕"が過ごした18日間の話である。
青春の1ページを描いた作品といっていい。
しかし、さほど話の展開があるわけではない。
友人の鼠、ある女の子、バーの店長などが登場するが、どの人物も謎めいている。
掴みどころがない小説である。
読後、思い出そうとするのだが思い出せないような感覚が残る。
あと少しで、何かに届きそうなのだが、届かない。
記憶を辿ろうとするのだが、ぼんやりとしたものしか掴めない。
要するに、
よくわからないまま物語が終わってしまったのだ。
散りばめられた印象的なフレーズだけが頭に残った。
物語の核もわからなかった。
これが最初の感想である。
"あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。"
と"僕"は書いている。
全くその通りだ。物語は通り過ぎてしまった。
本当に風のようである。
しかし、肝心の"歌"は何だったのだろうか。
"風の歌を聴け"と言いながら、"聴けなかった"のである。
そもそも、"風の歌"なんか聴けるわけがない。
"ビュービュー"吹くだけである。
「ふざけるな!」とそこまで思い、
ふと、本書は、聴けないものを聴こうとする事に意味があるのではないかと考えた。
冒頭で、"僕"は、
"文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎない。"
と書いていた。
つまり、物語は、
"僕"が"風の歌"を聴こうとする試みに過ぎないのだ。
ならば、"風の歌"は"自己療養のための何か"となる。
"風の歌を聴く"とは、自己との対話なのではないだろうか?
心の奥底に眠ってしまった記憶、
もしくは、押し込めてしまった記憶を思い出す行為だ。
そう考えれば、物語がよくわからないまま終わるのも納得できる。
"僕"は、ある問題を抱えている。
それを解決するために、過去と対話する。
しかし、それは"風の歌を聴く"ようなものであった。
本書は自己の内奥との対話で大切なものを見つける難しさを描いた物語とも読める。
"人生は風のように過ぎ去っていくものかもしれない。"
僕自身にとって大切なものが何であったかを思い出そうとする。
僕の"風の歌"は聴けるのだろうか。
そう考えた時・・・
僕はもはや村上春樹の術中にはまっていた。
自分の内奥へと深く沈もうと吸引される事こそ、
村上春樹の小説が持つ力である。
大切なものを見つけようとするのに見つからないもどかしさ。
比喩に彩られた表現の巧みさ。
これは村上春樹の他の作品にも通ずる根幹である。
彼の作品の原点として十分に楽しめる作品であろう。
・・・
これは、僕が大学時代に、
村上春樹 「風の歌を聴け」を読んで、書いた読書感想文のようなものである。
(授業で提出したので、メモではなく、本気で書いた)
もう10年程度、前の事なのだけれど、
この授業がなければ、今の職業に就く事がなかったと思うと感慨深い。
・・・
(新型コロナウイルスの影響で大学生みたいな生活をしているので。)
この感想文を書くために精読した作品であったので、
感想はそこまで揺らがず、
過去の自分、なかなか良いことを書いている、とニンマリとしたのが正直な所。
ただ、唯一、違っていたのは
夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナッツの殻をまきちらした。
との文章に、
何か意味ありげに、
まるで、人生で初めて書いた日記の1ページ目の最初の文字を書くように厳かに、赤線を引いた事ぐらいである。
この意味を本当の意味で理解できる友達(心友)は世界に一人だけであり、
今の僕を知っていて、大学生の頃よりビールを好きになったんだろうな、
と想像できる友達は両手に数えるぐらいはいると思う。