「一人称単数」
6年ぶりに放たれる、8作からなる短編小説集。
「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。
しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。
そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。
そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。
そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。
発売日。
近所の書店さんに行き、購入した。
流石に、購入できないような事はないだろうと思いながらも、
実際に並んでいるのを見たときは嬉しく思った。
僕はこういう景色に心の底からじんわりとする喜びを感じる。
新刊の単行本を発売初日に買ったのは久しぶりである。
単行本の重みは、読者へ気詰まりに似た緊張感を与える。
一言一句漏らさずに読んでやろう(感じ取ってやろう)との気持ちを抱かせる。
それは、劇場で観た映画がある種の特殊性を持った体験としての思い出に位置付けられるのと似ている。
単行本で読んだ本には、文庫のそれと、少し違った趣があると思う。
小説とはあくまでもフィクション。
虚構の世界である。
ただし、その虚構の世界は僕を没入させる。
強く、確固として堅牢な体験として自分の中に残る。
そして、生物の死体が長い年月をかけて石油になるかのように、
生きるための核となり、エネルギーのようなものになる。
…
ああ、僕は小説が好きだし、
村上春樹が好きだ。
読書を体験にする事ができる作家であると思う。
美しくて世界にただ浸っていたいような小説に出会った時に、
そこに、考察とか解釈とかテーマを読み解く義務はあるのだろうか?
”この小説でこんな事を表現したかったに違いない”とか。
”テーマは〜で云々かんぬん。”
・・・
小説には時に言葉にできない感情の動きがある。
だからこそ、僕は小説を読むのだと思う。
・・・
8作はどれも良かった。
ただ、
ウィズ・ザ・ビートルズ
品川猿の告白
一人称単数
は格別。
なんで格別だったかを考えるのはまた次の機会にするとして、
今は読書体験に浸りたい。
一文、引用する。
それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。
今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。
しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。
そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。
森の木の葉を巻き上げ、薄の野原を一様にひれ伏させ、家々の扉を激しく叩いて回る、秋の終わりの夜の風のように。
これは先に挙げたお気に入りの作の一文ではないのだけれど。
ああ、村上春樹を読んでいるなぁ、と改めて思う一文であった。