のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬る

三国志からの古事成語である。

 

子供の頃に読んだ三国志であるが、

泣いて馬謖を斬る、の物語はあまり好きではなかった。

 

どうしたって、幼少期の三国志は、

諸葛亮孔明を中心に回る。

”彼の天才的な策略によって、劉備玄徳の志を遂行する。”

どうしたってそのストーリーを期待してしまうのである。

馬謖とは、

諸葛亮孔明の作戦を台無しにした男としてのイメージしかなかった。

才能が羽ばたく前に一つの失敗で人生の幕を閉じたのだから、

それもやむなしといった所か。

 

ここで、泣いて馬謖を斬るの説明をしておく。

私情においては忍びないが、規律を保つためにはたとえかわいがっていた者でも他への見せしめのために処罰する。

 

要するに、

人事評価に私情を持ち込まない、との話である。

・・・

・・・

人事評価に私情を持ち込まない!

僕自身は、もう10年ほど、いわゆる会社勤めをしてきたが、

人事には私情が持ち込まれないと思った事なんて一度もない(ような気がする。)

そもそも、仕事ができて素直な部下の方が可愛いもので、

そこに私情が挟まれない方がおかしい。

・・・

こいつは個人的には嫌いだけど、

会社のために役に立つから〜

なんて話はあまり聞かないのである。

泣いて馬謖を斬るなんて話は現代の世の中ではなかなか見受けられない。

 

さて、馬謖の話。

馬謖とは、

諸葛亮孔明がその才能を愛した蜀の武将である。

愛したが故に、

孔明馬謖は、まさに父と子のような関係となる。

孔明馬謖に全てを教え、

自分の後継者として考えていた、とのストーリー。

 

今、泣いて馬謖を斬る、の話を読むと、

孔明がいかに馬謖に期待をしていたか?がわかる。

言うまでもなく、才能とは巡り合わせである。

馬謖に対する期待が重ければ重いほど、

裏切られた時のダメージは大きく。

孔明馬謖に対して、才能以上のものを期待してしまったのかもしれないと思ってしまうのである。

 

38歳であったとか。

3万の兵士で20万の兵と先鋒として戦う恐怖。

それは、ほぼ初陣のようなものであれば・・・とも、今になると見えてくる。

違う場面で失敗させていたならば・・・

詰まるところ、

全ての巡り合わせが良くなかったのが馬謖の人生である。

 

久しぶりに三国志を読んでいて、

初めて馬謖の立場になって考えたような気がする。

これは歳をとるとイコールでもあり、

人間は考え方がシームレスに変わっていく生き物であると思い出せてくれる出来事でもある。

 

人生の価値観はシームレスに変わる。

縫い目がないようなものだから本人も気付くことがない。

史実の空隙に入り込んだ物語

「黒牢城」

米澤穂信

 

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あらすじを引用。

信長を裏切った荒木村重と囚われの黒田官兵衛
二人の推理が歴史を動かす。
 
本能寺の変より四年前、天正六年の冬。
織田信長に叛旗を翻して有岡城に立て籠った荒木村重は、城内で起きる難事件に翻弄される。
動揺する人心を落ち着かせるため、村重は、土牢の囚人にして織田方の軍師・黒田官兵衛に謎を解くよう求めた。
 
事件の裏には何が潜むのか。
戦と推理の果てに村重は、官兵衛は何を企む。
デビュー20周年の到達点。
『満願』『王とサーカス』の著者が挑む戦国×ミステリの新王道。

 

これは面白い作品。

史実の空隙に作家が想像力を吹き込んだ。

その空隙における想像力の膨らませ方が尋常じゃない。

どのきっかけでこの物語構成を思いついたのか。

素直に驚く。

そして、そもそも米澤穂信さんは実力のある作家で、

紡がれる物語が面白い。

 

構成が秀逸、物語が面白ければ、自ずと秀作が生まれる。

本屋大賞等に選ばれて欲しいと感じたのだが、どうだろうか。

 

本作の主人公である荒木村重織田信長を裏切る。
よって、
対立構造は荒木村重vs織田信長になる。
 
荒木村重有岡城(現在、兵庫県にある)に立て篭もる。
織田信長軍は、裏切りを翻意させる為、
織田信長側の使者として黒田官兵衛を遣わす。
物語は使者である黒田官兵衛荒木村重が幽閉する所から始まる。
 
黒田官兵衛とは、言わずと知れた天才軍師である。
岡田准一さん主演で大河ドラマの主人公になっている、
と言えば、ピンとくる人もいるだろうか。
 
ここで、本作を読む上で、
史実を知っている・知らない、問題が発生する。
本作は、
米澤穂信という才気あふれる作家が、
史実を記した書物の行間に、物凄く想像力に富んだ設定を放り込んだ作品と言える。
そこに唸る。
 
その為、基本情報としては、
・信長を裏切って城に立て篭もった荒木村重
・幽閉された黒田官兵衛
の関係は有名な話である事を前提とした方が良い。
 
その上で、
本作では、その史実に対して、
・籠城中に起きる城の中での奇怪な事件
・事件を解決しないと籠城が内部から崩れる状況
・事件の解決の糸口を掴む為、荒木村重黒田官兵衛に知恵をもらいに幽閉した土牢に赴く。
との、
ミステリー的な要素を入れ込むのである。
 
羊たちの沈黙」におけるハンニバルレクターを思い出した。
土牢に赴く描写の雰囲気が似ている。
 
黒田官兵衛の鬼謀は凄まじく、
牢に入りながらも、言葉だけで牢番を殺す。
それは逃げる為ではなく、牢番が黒田官兵衛に暴行を働いた為、なのであるが、
殺した後
「牢の中からひとを殺すというのは、存外、難しいことではござらぬな。」
と、言い放つ。
わお!ハンニバルレクターかよ。
 
そこも含めると、
どうしても「羊たちの沈黙」との既視感があるのだが、
本作が秀逸なのは、史実の空白にそれを入れ込んだ事である。
 
さて、僕自身が本作の出来事を史実として知っていたのは
司馬遼太郎さんの「新史太閤記」を読んでいたからであり、
どのように書かれているのか気になって、
「新史太閤記」を読み直してみた所、
わずか18ページの出来事であった。
それを本作は400ページを超える大作として描く。
 
歴史小説の妙味は、
史実を踏まえて、どう切り取るかである。
誰かが斬首された、との史実に対し、
細い糸を手繰り寄せながら、斬首を解釈していく作業だと思う。
その意味では、
本作は、黒田官兵衛荒木村重に幽閉されるとの出来事を、
羊たちの沈黙」におけるハンニバルレクターのように解釈した、とも言える。
・・・
かけ離れている二つの出来事が作家の想像力によって結びつき提示された。
印象に残る作品となる事は間違いない。
 
 
 

人は自分を正当化する生き物である。

人間はたとえ自分がどんなに間違っていても、

決して自分が悪いとは思いたがらないものだということがわかりかけてきた。

 

ビジネス書の名著に位置付けられる「人を動かす」の第一章に書かれている。

 

”人は自分が正しいと思い込む”呪縛は、

そういうもの、と理解した方がいい。

多かれ少なかれ、

誰しもが自分は正しいと思っていて、間違っているとは思っていない。

 

そう言うと、

いや!私は間違えを認めている。

と反論する人がいるかもしれないが、

自分が間違えを認めるとは、

裏返すと、

間違えを認めている自分は正しい、と思っているのと同じである。

 

歴史を紐解き数々の争いも、

自分たちは正しいとの信念に起因する。

戦争が起きる理由は様々あると思うが、

大体の場合は、どちらの側にも正義がある。

 

僕が過去に知り合った人でも、

自分が正しいと思う呪縛に嵌っていない人はいないように感じる。

(もちろん、自分も含めての事である)

過去の経験から、確かにそうだな、としか思えないのである。

 

脳科学の本を読んだ時、その考えが補足された。

幻覚についての脳内の動きである。

 

・ミクロの世界では幻覚は幻覚ではない。

→何故なら、実際の脳の働きは、実際に見えているのと同じであるから。

 

つまり、

・幻覚を見えている時の脳の動き

・実際に見えている時の脳の動き(幻覚ではない場合)

の区別が脳の動きを観察しただけではわからない。

幻覚が見えている本人の脳内では起きている現象は同じなのである。

 

ミクロ=本人

マクロ=周囲の人

で考えた時、

本人には幻覚を判断する材料が一切ないのである。

 

そう考えると、自分の脳内が導き出した結論について。

自分の中で否定するのは難しいのではないかと思ってしまう。

何故なら、脳内で自分が感知している事が世界の全てであるから。

実際には存在しないものですら脳内では実際に存在するかのように置き換えられるのだから。

 

 

 

 

仕事と人生

”仕事と人生”とのタイトルから滲み出る古い時代のビジネスマンの匂い。

帯にある著者の写真がまさしく昔ながらの〜といった厳格な雰囲気を醸し出す。

今の時代、そのような生き方は本流ではないのかもしれないが。

経験から語られる仕事の考え方は、

間違いなく現代の仕事術としても通用する。

(というより、ある程度、普遍的なのだろう)

 

ビジネス書を読んで思う。

何年か前に気づいた事が書いている、とか。

やっぱりそうだよね、とか。

実体験を持って実感する金言があちらこちらにある。

 

僕自身はもう10年程のキャリアがある。

その上で、

新入社員の頃読んだ本をもう一度読み返す。

すると、線を引く部分が明らかに増える事に気づく。 

新入社員の頃は通り過ぎてしまった言葉が、

経験値により実感できるものとなり、引っかかるようになったのであろう。

 

今の自分が引っかかる言葉に線を引くと、

後々、読み返した時に自分の成長がわかる。

 

加えて、

自分が線を引けないような、引っかからない言葉にこそ、

熟考すべき価値のある言葉(自分がまだ知らない教訓)である可能性がある、と。

特に古典的な名著はそうかもしれず。

一度、何も残らなかったとしても、何度も読み返すのが良いかもしれない。

 

仕事と人生

西川善文

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引用

ラストバンカー・西川善文が晩年に語っていた「仕事ができる人」とは?
2020年9月に世を去った、稀代の銀行家の遺言。


「鬼上司」「不良債権と寝た男」…悪評を物ともせず、時代の先を見通し、
今何をすべきか腹の底から理解した男は、人の真価を見抜く天才だった。
いつの時代も変わらぬ本物の仕事術がここにある!

 

 

僕は西川善文さんの事は知らず。

 

知っている人であれば、また違った見方もできるのだろうけど。

 

第一章

”ものごとをシンプルに考える。”

仕事ができる人の定義として、

頭の中を整理整頓できる人である、とする。

 

多くのビジネス書で語られる事なのだろうが、

冒頭の一発目にシンプルに、この一文を差し込まれると、

ああ、なるほど、と思う。

それ自体がシンプルな構図であり、

シンプルさを体現していると言って良い。

 

また、その後に続く、

①自分ができること

②自分でやるには難しいこと

を明確に区別するのが肝要、との事は、

まさしく、と思う。

 

そこに加えて、

100点ではなく、70点で実行する方が大事である、と語る。

 

合わせると、

70点の段階で自分にできる事を実行する。

これ、重要である。

 

過去に一緒に仕事をした人で、

ダメだと思う同僚は、

②自分でやるには難しいことを100点満点まで調べている。

そして、

100点満点の調査結果を周囲に漏らす事で自尊心を保っている。

これは仕事をしたつもりの人間が陥りがちな事だと思う。

 

その上、70点で行動した同僚の失敗を、

調査が足りないと嘲笑ったりする。

もはや害悪と言って良い。

 

更に進んだ段階として、

②自分でやるには難しいこと

を、人を巻き込んで実行する、とのステージもあるのだが。

ある程度の年次までは、

70点の段階で自分にできる事を実行する。

で、十分に仕事ができる側に属する、と思う。

 

0点→70点までの道のりと、

70点→100点道のりは、

1点の重みが異なる。

山の頂上に至る道と同じ、最後の道中が厳しい。

ただ、目的が絶景を見る事であれば、

7合目で見える絶景で目的を果たすのがビジネスのあるべき姿なのであろう。

スロウハイツの神様 辻村深月

スロウハイツの神様

辻村深月

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人生を振り返った時、

あの出逢いがあったから、今の人生がある、

そう思えるものは存在する。

その出逢いは偶然かもしれないが、

必然であるかのように、自分の一部になる。

心の輪郭を鷲掴みされて、

無理矢理に形を変えられたような、

名状し難い感情の揺さぶりを鮮明に思い出せる。

それでいて、その感情は、

自分の細胞、一つ一つに刷り込まれているかのような、

存在する事が当たり前であるかのような存在である。

 

直木賞作家 辻村深月さんの作品

スロウハイツの神様は、

そのような人生を変えた出逢いを描いた作品である。

と言うと、

ありきたりな作品のように思えるが、

本作は、その出逢いに対しての熱量において、他の作品と一線を画する。

 

おそらく、辻村深月さん自体が同じような原体験があるのであろう。

(そうでなれば、そう思わせる力強さがある)

人は、本当に好きなものについて語る時。

早口になって、前のめりになる。

その言葉は熱を帯び、目は輝く。

周囲の温度が上がるかのような雰囲気を纏う。

本作にはそういう源泉的な熱さがある。

 

そして、僕自身、

そういう作品にめっぽう弱い。

自分自身が、そのような、何か好きなものがある事を支えに生きてきた、からだと思う。

 

その時を思い出すと、

世界が震える。

それくらい夢中になれる瞬間が、

人にはある。

僕は、その時、その瞬間、そこに存在した事だけで、

僕の人生は幸せだったと言い切れるような体験をした。

 

この作品は、

好きで好きでたまらない、人生を変えたような体験にリンクして、

猛烈に感情を揺さぶる作品である。

 

あらすじを引用。

 

人気作家チヨダ・コーキの小説で人が死んだーー

あの事件から10年。
アパート「スロウハイツ」ではオーナーである脚本家の赤羽環とコーキ、そして友人たちが共同生活を送っていた。
夢を語り、物語を作る。
好きなことに没頭し、刺激し合っていた6人。
空室だった201号室に、新たな住人がやってくるまでは。

 

辻村深月さんの作品は割と愛読しているのだけれど、

この作品は、一番好きであると言っても良い作品である。

本屋大賞となった「かがみの弧城」の方がまとまっている感じがするのだけれど、

スロウハイツの神様は、

辻村深月の小説を書くマグマのような熱い源泉を浴びせかけられたような作品である。

 

震えて泣いた。

主人公の赤羽環が言う。

「だったら、忘れてしまえばいい。私は絶対に覚えているから。絶対に、忘れたりしないから。あの心に響いた感じに揺り動かされながら、ここまでやってきた。これから先も、きっとやっていく。」

人が本当に好きなものを人生で得られるのは、

ただそれだけで幸せな事である。

その事を、本作を読むと強く思う。

 

そして、またこの作品自体が、

僕の人生を揺り動かした大切な瞬間であり、

また誰かの人性に対するクサビとなるのである。

 

素晴らしい作品を紡いでくれた事に心より感謝する。

 

推し、燃ゆ

社会に馴染めない人、は、ある一定数いる。

僕自身も、全ての人に馴染めるわけではなく、

例えば、IT企業の超エリート軍団とか、喧嘩っ早いチンピラ集団、ハロウィンの若者とか、

たぶん、うまく馴染めないであろう集団は容易に思いつく。

 

馴染めない。

とは、呼吸ができないようなもので、

呼吸できない環境とは、

苦しい。

当たり前の事を、当たり前にできない時、

人は、ただただ、苦しい。

その苦しさは、

他人が推し量ることのできない。

それも、

他人は呼吸ができている中、

ただ独り、呼吸ができないのである。

 

呼吸をすればいいじゃん?

との安直な問いかけは、心に突き立つ刃となる。

自分が当たり前だと思う事が、

人にとっては当たり前でない事は多い。

悪意なき刃は人を深く傷つける。

 

馴染めなくても、生きていかなければならない。

呼吸できなくても、息を吸わなければならない。

その苦しさの中で、何に縋るのか。

そして、それは果たして救いになるのか。

本作を読んで、

そんな事を考えた。

 

盲目である事が安らぎになる事もある。

 

推し、燃ゆ

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あらすじを引用。

 

逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。

アイドル上野真幸を“解釈“することに心血を注ぐあかり。

ある日突然、推しが炎上し——。

デビュー作『かか』は第56回文藝賞及び第33回三島賞を受賞(三島賞は史上最年少受賞)。

21歳、圧巻の第二作。

 

若い作家さんで驚いた。

推し、との言葉にはどうしても若さを感じざるを得ないが、

文章は巧緻である。

読み応えがあった。

 

若者のリアルを読み解ける、との感想は少々、安易に思える。

本作は、推しが炎上した話ではなく、

社会の中で、

うまく馴染めずに呼吸をできないような女の子の話である。

(はっきりとは言われないが、主人公は発達障害だと思われる記述がある)

 

例えば、

主人公のあかりがバイト先で、

常連客にちょっとハイボールを濃いめで作ってくれない?と頼まれる。

あかりは、ハイボールの濃いめと普通の料金表を持って常連客に見せるが、

そういうことじゃない、のである。

 

機転の利く人であれば、

偉い人にバレないように、

ちょっとだけ濃いめのハイボールを作って、

絶対ナイショですよ!

等と、その場に馴染む振る舞いをしたりする。

それは、変な言い方であるが、

うまく生きるための処世術なのである。

(決してルールを破る事を推奨しているわけではない)

 

あかりは、そういう処世術でうまく生き抜く事ができない。

それが、呼吸ができないような苦しさを生むのだ。

 

その中で、

あかりが、救いとしているのが、推しを推す事であるのだが、

この物語は推しによって人生が救われました、と言ったような感動物語ではない。

 

結末の言及は避けるが、

当たり前であるが推しもまた社会の一部である。

あかりが馴染めなかった社会の一部なのである。

その事実を知ってもなお、生きていかなければならない事に、人間のリアルを感じた。

 

 

「ままならないから私とあなた」

熊本に鈍行列車で向かった事がある。

いわゆる青春18切符での鈍行の旅であり、

お金はないけど時間がない学生の定番であった。

でかいリュックと一緒に、まるで置物のようにちょこんとボックスシートで座っていたのだけれど、

途中で乗ってきたおじさんに、

「おう!兄ちゃん、熊本行くのか?」

といきなり話かけられた。

心の中で、

(この列車で熊本に向かっていない人間なんていないだろ、何故なら熊本行きの電車だから!)

と思いつつ、

「そうなんです!」

と元気良く返事をした所、

「そうか兄ちゃん!熊本は夜の街も良いからなぁ」

と、青少年に有害な事を直球でぶつけてきた。

中学生の男子に接するすげぇエロいおじさんみたいな雰囲気である。

こういう人、いるよなぁ、と思いつつ。

少々、話をして、出会いとしては悪くない事であり、

旅の本懐とも思った記憶がある。

それは、飛行機で熊本に到着していたら、

決してすれ違わぬ邂逅。

 

「ままならないから私とあなた」

朝井リョウ

 

この本を読み終わった時に、

熊本で出会った見知らぬおじさんの事を思い出したのは偶然ではない。

 

もし飛行機で熊本に着いていたら、との仮定は、

おじさんとの思い出を夢散させるが、

もしかすると、熊本城を長い時間かけて丁寧に観察する事により、

また別の出会いがあったかもしれない、と思う。

その二つの、もし、には優劣がなく、

どちらも人生の中では起こりうる事なのだと思う。

 

あらすじを引用。

先輩の結婚式で見かけた新婦友人の女性のことが気になっていた雄太。
しかしその後、偶然再会した彼女は、まったく別のプロフィールを名乗っていた。
不可解に思い、問い詰める雄太に彼女は、
結婚式には「レンタル友達」として出席していたことを明かす。 「レンタル世界」

成長するに従って、無駄なことを次々と切り捨ててく薫。
無駄なものにこそ、人のあたたかみが宿ると考える雪子。
幼いときから仲良しだった二人の価値観は、徐々に離れていき、
そして決定的に対立する瞬間が訪れる。
単行本に、さらに一章分を加筆。少女たちの友情と人生はどうなるのか。
「ままならないから私とあなた」

正しいと思われていることは、本当に正しいのか。
読者の価値観を心地よく揺さぶる二篇。

 

本作は、

熊本へ鈍行列車で向かう事を時間の無駄と考える女の子である薫と。

鈍行で行く事で巡り合えた出会いが大切であると信じる雪子、の話である。

その運命は巡るものであり、

どちらが正しいとか、間違っているの話ではない。

そこに優劣をつけようとした時に、

人生は何かが失われるものであると、本作は語る。

その事について、どう思うのか。

 

朝井リョウは、現代に関するわかりやすい違和感をストレートに投げかけてくる作家である。