司馬遼太郎の小説に、
彫像に似通うものを感じた。
彫像。
例えば、木彫りの熊をイメージして欲しい。
元はといえば一つの材木が、
彫刻の積み重ねにより、姿を現す。
熊の原型は材木にはない。
材木が彫刻刀で少しずつ削られた到達点として、
生命を宿す熊が現れてくるのである。
ただ、そこに脈動する木彫りの熊は、
たしかな存在感をもって、
生命の飛沫を感じさせるものである。
彫像が創作される過程に、
司馬遼太郎の読書体験との共通点を感じた。
どういうことか?
僕にとって、
司馬遼太郎を読むとは、一種の忍耐が必要なのである。
これが、
(僕は体験した事がないが、想像するに)
木彫りの熊が創作される工程に似通っているように思うのである。
司馬遼太郎の小説は、
綿密で徹底した歴史検証の結晶である。
真偽は知らぬが、
神保町にトラックで乗り付けて史料を収集したとか。
司馬遼太郎が「坂の上の雲」を手掛けた際には、
神保町から日露戦争関連の史料が一切消失されたとか。
僕は、司馬遼太郎記念館でその恐るべき蔵書の夥しさを体感している。
(自宅に6万冊あるというのだから、やはり、一種の異常である。)
その徹底した情報収集の結晶である司馬遼太郎作品は、
言ってしまえば、
地味な時代検証が朴直と積み重ねられていく記述が続く部分があり、
心躍るような、時代の血潮を息吹として感じる叙述が続くのではない。
故であろうが、
僕は司馬遼太郎作品を読んでいる最中、
純粋に面白いと感じているか?と問われると、
疑問が残る。
「坂の上の雲」はその良い例であろう。
僕は、この作品を、読書を始めたばかりの人にはお勧めできないし、
司馬遼太郎作品を初めて読む人にも同様に推薦しない。
読んでいる最中、
決して、面白くてやめられないといったような事はないのである。
だが、司馬遼太郎作品の凄さは、
作品を読み終わった時、
時代と人物像が、
生命を宿し、克明な実像を伴って、自分の中に残っている事である。
そこが、彫像(木彫りの熊)と似ている。
一つ一つの記述(彫刻の動作)は決して派手ではない。
だが、削られていく事で顕かになる実像が、
はっきりとした生命を宿って存在するのである。
最近、読んだのは「国盗り物語」
国盗り物語は、マムシと呼ばれた下克上大名の斎藤道三から、織田信長、明智光秀と物語が続く。
その各々の人生についての考察は、また別であるのだが、
やはり、読んでいる最中には、なかなかの時間を要した。
且つ、いわゆる、娯楽の読書体験ではない。
ページを繰るのに忍耐が必要である。
だが、読み終わって、残る。
自分の中に、確実にある。
斎藤道三が、
織田信長が、
明智光秀が、
時代に生きた確かな胎動が、自分の中で脈打つ。
だから、僕は、司馬遼太郎の小説が好きである。