GWに読んだ本について考えてみる。
GWです。
(いや、潔く・・・)
GWでした。(過去形)
これから〜ではなく。"〜した"の方が似合っている。
さて、GWに読んだ本。
「浮世の画家」
カズオイシグロ
元々、カズオイシグロさんの本は大好きなのだけど、この本も大切な1冊となった。
思考を熟成させるべき本は雰囲気を持っている。
将来もう一度読みたくなるであろう事を確信させる作品。
あらすじを引用。
戦時中、日本精神を鼓舞する作風で名をなした画家の小野。
多くの弟子に囲まれ、大いに尊敬を集める地位にあったが、終戦を迎えたとたん周囲の目は冷たくなった。
弟子や義理の息子からはそしりを受け、末娘の縁談は進まない。小野は引退し、屋敷に篭りがちに。
自分の画業のせいなのか…。
老画家は過去を回想しながら、みずからが貫いてきた信念と新しい価値観のはざまに揺れる―ウィットブレッド賞に輝く著者の出世作。
カズオイシグロさんの作品を一言で表現すると、"静謐"であると言える。
とても静かなのだ。
だけど、その中に抑制されている感情が真綿で締められるように自分(読者)の中に侵蝕してくる。
この感覚は、カズオイシグロさんの小説でしか味わえないかもしれない。
例えるなら・・・
静かな湖畔で水面に水滴を垂らす。
すると、静かに波紋は広がっていく・・・。
だけど、静かな波はいつの間にか大きな波に変わっている。
こんな情景である。
心の平静がいつの間にか崩される、揺さぶられ方が半端ではない。
静謐の中に強烈な揺さぶりがある、すさまじい作風だと思う。
本書は、画家の話である。
戦時中に日本精神を鼓舞する作風で名をなした主人公が、戦後にどのような思いで生きているか?がテーマである。
1945年。日本は戦争に敗け、アメリカ軍の占領政策が始まった。
価値観が180度転換したあの時代、戦争を賛美するものは次々と姿を消した。
戦争指導者は裁かれ、日本精神を謳う教科書は黒塗りされた。
・・・
だけど、人は、変わらず生きていた。
変わらずなのか、変われずなのか?
「戦争を肯定した絵を描いた画家」とのレッテルを貼られ、それでもなお生きていた。
戦争を肯定する絵を描いた事。
そして、戦争により、多くの命が奪われた事実。
これを絵を描いた張本人である主人公はどう受け止め、考えるか?また、周囲の人々はどう感じているか?
本書は1人称で"主人公のわたし"が語る構成になっている。
多く回想のシーンがあるのだが・・・
戦争当時の事を、何度も何度も、"信念に基づいて行った事であった"と語っている。
まるで、自分に言い聞かすかのように・・・
当時の事を"信念に基づいた行動であった"と振り返る。
"信念に基づいて、正しいと思った事を行った"と。
このリフレインに読者はある疑問を感じる。
"果たして、呪文のように唱えているこの言葉は本心であり、真実なのだろうか?"
"本当に心底そう思っているのか?”
この疑問が、1人称の"わたし"の語りの中に芽生えた時、"静謐"は崩される。
とても静かに語られる1人称の"わたし"の裏側に、強烈な揺らぎの感情の抑制を読み取り、愕然とする。
罪ではない。決して・・・。
当時、そうするしかなかったか、そうすべきだと思ったか・・
正しいと思った事をした、それは真実である。
それが正しいと思った事も、責められる話ではない。
だけど・・・
理屈では咀嚼できない、心の影が存在していて。
抑制された"わたし"の語りの裏側で、じわじわと育っている暗い影を読者は感じとる事になる。
ただし、"わたし"はその事について、明言はしない。
ただひたすら、呪文のように"信念に基づいた行動であった"と繰り返す。
全ては読者の想像力の中にある。
語りの中で"わたし"は具体的な描写をあまり覚えていないとする。
それは、直視したくない記憶の再構築であるからか?と思うのは穿った見方であろうか。
僕、個人としての意見を言うならば。
"正しいと思った事を信念をもって行った"ならば、決して責めるべきではないと思う。
だけど、戦争が生んだ悲劇は、理屈だけですんなりと飲み込めるものではない。
主人公の心に、自分の波長が同調する。
まるで共振しているかのように、自分自身も揺さぶられる。
こんなに静かな小説なのに。
テーマと世界観が秀逸。
カズオイシグロさんの作品ベスト3には入る。