"禅と日本文化"は意識すらできない同化をしている?
面白い!
大学時代に読んで挫折したのだけど、再読すれば名著と呼ばれる理由がわかる。
吸い取れる部分だけ吸い取れ!と大学時代の自分にアドバイスしたい。
「禅と日本文化」
鈴木大拙 著
北川桃雄 訳
挫折した理由は、正直、難解(というより、文章が肌に合わないと感じた)のである。
読んだ言葉が左から右へ。
再び手に取った時、何も思い出せない本の1つであった。
だが、再び読むと、目からウロコの連続。
ほお、"我、成長したり。"とニンマリ。
こう表現する。
凡愚が立ち読みしたら確実に損する。
だけど、私のような凡愚でも買えば絶対に損はしない。
"再読しなきゃだめなんでしょ?読まないかもしれないじゃん"と思ったあなた。
考えが、"水たまりより浅はか"であり、そして、"アメリカの体に悪そうなチョコレート"より甘い!!!
再読しない場合は、知的インテリア置物と解釈して下さい。
どうですか?「禅と日本文化」たる本がさりげなく本棚に置いてあったら?
カッコよくないですか?わぁ、素敵ってなりません?
(考えが、"水たまりより浅はか"であり、そして、"アメリカの体に悪そうなチョコレート"より甘いですか?)
同意してくれた方。
でも、内容を説明できないと・・・と不安に思うかもしれません。
心配ご無用。
例えば、彼女に「禅って何なの〜?」って聞かれたらこう答えてください。
(キリッ)
「禅は言葉で語れない。」
「"不立文字"言葉に頼らないのが禅のモットーなんだよ。」
と。
これがマジックワードです。もう、何も言えないはずです。
彼女はあなたにウットリです。
はい。
おふざけが過ぎました。
以下、本書の概略を説明します。
(そして、何故か、ここで敬語をやめます。)
あらすじから引用。
禅は日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか。
そもそも禅とは何か。
本書は,著者が欧米人のためにおこなった講演をもとにして英文で著わされたものである。
一九四○年翻訳刊行いらい今日まで,禅そのものへの比類なき入門書として,また日本の伝統文化理解への絶好の案内書として読みつがれている古典的名著。
本書にて、禅とは、言葉によるものではなく、身をもって体験するものなのだと説明されている。※"第1章 禅の予備知識"を参照。
疑問が湧く。
・言葉によらない宗教が何故、生き延び、かくも広まったのか?
・禅って、どうやって説明するのよ?
疑問①
言葉によらない宗教が何故、生き延び、かくも広まったのか?
本書を通読するとわかる。
目次は以下のとおり。
第一章 禅の予備知識
第二章 禅と美術
第三章 禅と武士
第四章 禅と剣道
第五章 禅と儒教
第六章 禅と茶道
第七章 禅と俳句
読み終わると、いかに禅が日本文化と似通っているかに気づく。
日本人の根底的な価値観を説明すると、イコール、禅を説明する事になるのである。
いわゆる、日本的な美。
簡素で美しい、潔い死、わび・さび・・・等。
これらの思想的な追求が禅と一致しているのだ。
目次にある六つの"日本的なもの"がいかに禅の思想が息づいているか。
本書は次々と関係性を明示していく。
禅は日本文化の血肉と化し、もはや、引き剥がす事ができない。
故に、我々は禅たるものを意識すらできないのであろう。
"意識すらできない同化。"
これは、驚嘆である。
仏教用語がいかに我々の言葉に混じっているかを論じている本があったが、その感覚に近い。
例えば、十字架を片手に、神は我々を見守ってくれています、と言う人がいれば、そこには宗教的な匂いを感じるであろう。
しかし、禅は、"禅の思想を語っていても宗教色がない" との事になるのではないか?
我々が日本人的な感覚で美しいと思っているものは、無意識に禅の思想が投影されているのであろうか?
こうなると、広まる or 広まらないの話ではなく、別次元の話になってくる。
そうだとしたら、日本を知ろうとする上で、禅を知ろうとしない理由はない。
禅こそが、日本的思想の古層なのだろうか?
好奇心の種がまかれる一冊。
各章の内容は後日、別ステージにて語りたいと思う。
ちなみに疑問②の"禅って、どうやって説明するのよ?"は、本書にて夜盗の親子をもってして丁寧に説明されているので、どうぞお読み下さい。
一言で言えば、ライオンは子供を谷底に落とす的な話です。