動的平衡。私たちは常に入れ替わっている。
福岡伸一さんの本を何冊か読んでいると、"動的平衡"がテーマである事がわかる。
※読み終えた福岡伸一さんの本たち。
動的平衡とは何か?
化学平衡は反応が停止した状態にあるのではなく,正方向と逆方向の反応速度が等しくなったため,見かけ上は反応が停止したように見えること。
すなわち,平衡は外見上静的に見えるが,実際は動的状態にあると考える。
わかりやすく言うと。
①右方向へ進んでいる動く歩道があります。
②そこに載っている人は何もしなければ右方向へ運ばれます。
③では、載っている人が左方向(動く歩道とは逆)に同じスピードで歩くと?
④同じスピードであれば、まるで止まっているかのような平衡状態を保ちます。
⑤載っている人自身は動いているが、止まっているように見える。
→これぞ、動的平衡の出来上がりである。
生命とは"動的平衡"状態にあるものである。
つまり、生命は見かけ上は平衡状態にあるようでいて、動いているのである、と。
何だ?動いているとは?
別に動いている自覚ねえよ、と思ったかもしれない。
私たちは、確固たる個体として自分を認めている。
私は、私以外の何物でもないと思っている。
外界と私は壁で仕切られていると感じている。
私は一つの個体であり、揺るぎないものである、と考えている。
そうではないのだ。
私たちは、流れの中にいる。
絶えず動きの中にある。
この考えの土台となっているのが、細胞レベルで私たちは常に入れ替わっている事実である。
人体は60兆もの細胞で形成されている。
数はさておき、一個一個の細胞が集まって人体を形成している事は誰もが承知であろう。
それでは、この細胞・・・
生まれた時から死ぬまでずっと同じ細胞か?
そうではない。
1年も経てばすべての細胞が入れ替わってしまうのである。
川でイメージするとわかりやすい。
川の水が上流から下流へ流れていく。
一度見た水はもう見る事はないが、川はいつまでも同じ川である。
私たちも同じである。
一見、同じに見えるが、実際は細胞レベルで絶えず入れ替わっている。
同じ細胞はもう見る事はないが、私はいつまでも私である。
そこまで考えると、私って何だ?と思わざるをえない。
極論。
細胞レベルで全て入れ替わったならば。
全く別人と言っても過言ではないのでは?
とも考える事ができるからである。
例えば、機械の部品を一つ一つに分けて。
全て片っ端から交換したのと同じイメージである。
細胞レベルで考えた時、私とはどこに宿っているものなのだろうか。
と、こんな複雑な事を思う反面。
"何だ、全部入れ替わるなら、私って変われる!"
とプラス思考に捉えたりもする。
人生には沈んでいる時期と、浮き上がっている時期があるが。
沈んでいる時期には、沈んだ細胞が増殖した結果なのではないだろうか?とヘンテコな事を思ったりもする。