大学生時代に読んで衝撃を受けた作品。
再び手に取り、やはり衝撃を受ける。
楽しい小説ではない。
個人的に暗いニュースが多いので。
どうせなら負のベクトルに突き進んでやろうと思った結果、手に取った。
「個人的な体験」
あらすじを引用。
わが子が頭部に異常をそなえて生れてきたと知らされて、アフリカへの冒険旅行を夢みていた鳥は、深甚な恐怖感に囚われた。
嬰児の死を願って火見子と性の逸楽に耽ける背徳と絶望の日々…。
狂気の淵に瀕した現代人に、再生の希望はあるのか?
暗澹たる地獄廻りの果てに自らの運命を引き受けるに至った青年の魂の遍歴を描破して、大江文学の新展開を告知した記念碑的な書下ろし長編。
頭部に異常を持つ子供が産まれた男の話。
そして、その子供が、"長くは持たずに死ぬかもしれない"と言われた時、男は何を望むのか?
障害をもって産まれてきた子供と直面する親の苦悩を描く作品。
苦悩・・・
そんな言葉で片付けられないかもしれず。
"人間としてどう生きるか?"との根源的な問いかけである。
男は、子供の死を望む。
障害をもって産まれた我が子の死を。
・・・
薄っぺらいヒューマニズム的な感情が、そうであってはならない、と思う。
だが、現実主義的な自分は、主人公の男に同調する。
我が子の死を望む。
そんな事はあってはならないし、あるべきではない。
ただ、頭部に異常を持った子供を簡単に受け止められるのか・・・。
子供の死を望み、何もなかった事にしたいと思わないと、誰が言い切れるのだろうか。
"自分だったらどうだろう?"
この問いかけは、脆弱な土台に支えられた正論を根底から覆す。
正論は当事者ではない立場だから簡単に言えるのである。
自分自身が直面した時に、局面はガラリと変わる。
大江健三郎さんの文学を読むと、自分が薄皮を一枚一枚剥がされていくような錯覚に陥る。
ヒューマニズムの膜に覆われていない自分の本質的な弱さが曝け出される。
何にも守られていない無抵抗な自分と対峙させられる。
僕自身、文学とはかくあるべし、と思っていて。
文学への没入は"自分を覆っている殻を少しずつ削いでいく作業"だと思う。
そして、"外殻が削がれ、薄膜で被われただけの自分と対峙を体験する行為"だと思う。
大江作品には、そこまで人を持っていくだけの力がある。