大学時代の初期によく読んだ東野圭吾さん。
物語にグイグイと吸い込む力。
小説とは、人を夢中にするものである。
物語に浸る面白さを確実に生み出せる作家である。
「虚ろな十字架」
東野圭吾さんの作品はよく映画化される。
彼の作品はドラマチックだからであろう。
私見を少々。
何作か東野圭吾さんの作品が映画化されたのを観た事があるが。
小説と大して変わらない事と思った。
小説(原作)を先に読むと、映画がつまらなくなる、とよく言うが。
東野圭吾さんは特にその傾向が強く。
何故だろうと考えた時、小説自体が映画的である事。
更に言えば、脳内で映像化しやすい作品なのだと思う。
良くも悪くも、はっきりしている。
どちらともとれるような微妙なニュアンスではなく。
解釈に迷わない描写。
具体的に言えば。
"ひろ子は笑った"、との表現があるとして。
どのような感情が込められて笑ったか?がはっきりしているのが東野圭吾さんの作品だと思う。
何故笑ったか?の解釈を読者に丸投げする作家さんもいて。
どちらが良い、悪いではないのだが。
僕自身が大学時代に東野圭吾さんをよく読み。
その後、あまり読まなくなった理由はその辺りが大きい。
さて、そんなわけで久々に読んだ東野圭吾さんの作品。
あらすじは。
中原道正・小夜子夫妻は一人娘を殺害した犯人に死刑判決が出た後、離婚した。
数年後、今度は小夜子が刺殺されるが、すぐに犯人・町村が出頭する。
中原は、死刑を望む小夜子の両親の相談に乗るうち、彼女が犯罪被害者遺族の立場から死刑廃止反対を訴えていたと知る。
一方、町村の娘婿である仁科史也は、離婚して町村たちと縁を切るよう母親から迫られていた―。
"死刑"についてどう考えるべきか?を投げかける作品である。
言い換えると、"何のための死刑制度なのか?"との問いかけでもある。
深く考えずに、"被害者遺族のためでしょ?とか、犯人の罪を償うためのものでしょ?"などと思いながら本作を読むとパンチを食らう。
僕自身は、"〜のための死刑"なんてありえないと思っている。
ただのルールであるとしか言えない。
それがあるケースでは、"被害者遺族のために "なり、"犯人の反省を促す刑罰"と姿を変えるだけであって。
ありとあらゆる犯罪のケースにおいて、カチッと当てはまる答えなんて存在しえない、と思うわけである。
本作から引用する。
「人を殺せば死刑-そのようにさだめる最大のメリットは、その犯人にはもう誰も殺せないということだ」
死刑に対する考え方の一つの見方として尊重すべきものであり、心に残る一文であった。