文章についての考察
文章がうまくなりたい。
小学生以来の願望である。
多くの人が一度は思った事があると思うのだよね。
学生時代の作文に始まり、社会人には報告書が付き纏う。
社会人になって思う。
文章が下手な人は仕事ができない事が多い。
報告書に誤字脱字が多いと、ダメな奴、とのレッテルを貼られる。
意味のわからない文章を創出すると轟々と非難が集中する。
もちろん、支離滅裂な事を書いていても、仕事はきっちりやる人もいる。
ただし、それは特殊技能を身につけている人が多い。
一般的な文系諸君は当てはまらない。
多くの平均的な文系は、きちんとした文章を身につけるべきなのである。
僕自身も後輩を指導する際に、まず文章の手直しから始める。
まず大前提としているのが。
文章に正解はない。
のである。
この点は柔軟に対応する事をお勧めする。
具体に社会人になって体験する例で言うと・・・
①先輩に文章を直してもらう。
②先輩に直された箇所を係長に指摘される。
③係長に指摘された箇所を課長にダメ出しされる。
④結果的に初期の文章に戻る。
・・・
この現象は社会人になると体験する怪奇現象である。
若輩者は、"いや、そもそも直される前は〜"と言い訳がましく嚙みつく。
達人は、"そうですね!!!"とニッコリ受け入れる事ができる。
そして、心の中で、"ベイビー、文章に正解なんてないんだから仕方ないぜ・・・。"とつぶやくのである。
正解がないなら、自由にしていいのか?
と言うと、決してそんな事はない。
文章には正解はない。
だけど、法則はある、と思っている。
では、法則とは何か?
文章とは・・・人に何かを伝える手段である。
故に、伝われば何でもいいのである。
伝えるためにはどうすればいいか?
"文章を一つの意味に限定する"、とすると良い。
例えば、テーブルにレタスが置いてある。
①"これはキャベツではありません。"
②"これはレタスです。"
③"これはサラダに使う野菜です。"
②の"これはレタスです。"が一番意味を限定している、との意味である。
これは、レタス以外の何物でものないのである。
もし仮に、"これはレタスです。"との文を読んで、読み手が"ほお、キャベツがテーブルに置いてあるのだな。"と読み取ったら、そいつがクレイジーなだけである。
気にする必要はない。
以下、無用の事ながら補足。
①"これはキャベツではありません。"について。
→もしかして、ニンジンですか?
③"これはサラダに使う野菜です。"
→キャベツかもしれませんね。
もちろん、これは極端な例である。
現実にはもう少し微妙なニュアンスの違いによって苦しめられる。
そんなわけで、文章の意味を限定すると伝わる可能性が上がる。
(たとえ、伝える内容が間違っていたとしても)
文章の第一責務は伝える事である。
よって、基本は文章の意味が1つである事が土台になると思う。
ただし、この法則は正当な報告書に限る。
逆に玉虫色の文章を好む輩もいる。
(どちらにも取れる表現。まぁ、つまり政治家ですね。)