村上春樹の新作「一人称単数」。
短編集である。
収録作は下記のとおりである。
「石のまくらに」
「クリーム」
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
「謝肉祭(Carnaval)」
「一人称単数」(書き下ろし)
特に最後の作品である「一人称単数」はインパクトがある作品だと思うが、
今回は、その中の”品川猿の告白”について。
品川猿の告白のあらすじは、
話す猿?
と言われると、
どうしても猿の惑星的な話を思い浮かべるが、
本編に登場する猿は鄙びた旅館に似合う哀愁の漂う猿である。
「ところで君には名前はあるのかい?」と僕は尋ねた。
「名前というほどのものは持ち合わせてませんが、みなさんには品川猿と呼ばれております」
そんな品川猿と主人公と僕は、旅館でビールを酌み交わす。
その中で、
品川猿がとある告白をするのが、本作の「品川猿の告白」である。
・・・
その告白とは、品川猿の業に近い。
人の名前を盗む猿なのである。
「〜 言い訳するのではありませんが、私のドーパミンが私にそう命じるのです。ほら、いいから名前を盗んぢまえ、なにも法律にひっかかるわけじゃないんだから、と。」
名前を盗む、とは何だろう・・・と思うかもしれない。
その観念は本作の中で品川猿が告白してくれる。
名前。
同一のグループに属するかどうか、
また、同一グループの中で同じ個体であるかどうか、の認識に役立つように付けられる象徴的記号。
誰かの象徴的な記号を盗む。
品川猿は言う・・・
「はい、それはある意味では究極の恋愛であるかもしれません。しかし同時に究極の孤独でもあります。
言うなれば一枚のコインの裏表出会う。そのふたつはぴたりとくっついて、いつまでも離れません。」
”品川猿の告白”をどう考えるかは、
読者に委ねられる。
・・・
「〜しかしたとえ愛は消えても、愛はかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。〜」
引用が多くなるのは、言葉が珠玉であり美しいからだと思う。
この作品に関連して、
「東京奇譚集」
にも名前を盗む品川猿が登場する。
なので、
僕は「東京奇譚集」を再読して、村上春樹について思った事を、まとめて見たいと思う。
例えば、世界に歪みがあるとして、
歪みとは目に見えないが、
確実に存在する何か違和感のようなもので。
村上春樹は、
その歪みを、歪み自体を描くことで表現するのではなく、
歪み以外の何かを描くことで浮き彫りにする作家だと思う。
とても抽象的で、
核心を掴めない表現であるのだが、
そんな事を思った。