名著発見!!!「ファスト&スロー」
2016年は、この本に出会えただけで価値あり!!!
と断言したくなる。まごうことなき名著。
間違いなく再読する。
「ファスト&スロー」
ダニエル・カーネマン
分厚い本で読了には時間がかかる。
ただ、それだけの価値がある事を保証。
※良書のため何回かに分けてブログで紹介する。
副題"あなたの意志はどう決まるか?"
人間の意思決定サイクルを丁寧に説明してくれる。
意思決定サイクル?
「そんなもの知らねえよ。自分の意志を決めているのは俺自身だ。」
と思ったあなた、大間違いである。
本書を読むと、
人間の意思決定サイクルが如何に無意識に行われているか?がわかる。
言い換えると・・・
人間の意思決定は無意識の内に決定されている部分が多い。
例えば、もし、あなたが・・・
水面に浮かんでいるお札のスクリーンセーバーを使っていたら・・・
あなたは知らない人がうかつにも鉛筆を落としてぶちまけた時、少ししか拾ってあげないだろう。
パッと読むとワケがわからない。
水面に浮かんでいるお札のスクリーンセーバー?鉛筆?
なんじゃそりゃ?である。
過去に経験がないから誰もがピンとこないのである。
ただし、本書の内容は"お札のスクリーンセーバー×ぶちまけられた鉛筆"の話を見事に納得させる。
本書にて、ある実験を紹介する。
被験者を
①"お金を連想させるもの"を見せるグループ
②見せないグループ
に分ける。
当然、①と②。
"お金を連想させるものを見たかどうか?"で行動にどのような影響がでるか?を確かめる実験である。
結論を先に言う。
・"お金を連想させるもの"を見た被験者は、自立心と利己心が高まった。
具体的に。
・被験者に対し、"鉛筆を落としてぶちまけた所、拾う本数が少なくなった"。
これはあくまで実験の結果である。
結果的に、そのようになりました、と言われれば納得できる気がする。
ただし、問題は・・・
そのような結果になる(心理的な影響を受ける)と今まで思いもしなかった事である。
無意識に行動が影響を受けているのだ。
つまり、お金のイメージによって、自立心や利己心が高まると意識できないのである。
この"無意識"がポイントである。
もし、あなたが部屋でお金の勘定をしている時・・・
突然、恋人から電話がかかってきて
"ねぇ、今から会えない?"と聞いたとする。
あなたはそんな気分になれない・・・。
すると、こう答えるに違いない。
「いや、今日はちょっと疲れているからまた明日にしようよ。」
・・・
当然、結果論で話をしている。
お金の勘定をしていなくても、あなたは今日は会う気分になれなかったかもしれない。
ただ、あなたは、"お金の勘定をしていた事で心理的な影響を受けていた可能性がある"のである。
そして、同じシチュエーションを何度繰り返したとしても・・・
「ごめん、今、お金の勘定をしていてさ。ちょっと自立心と利己心が高まってるんだ。だから、明日会おうよ。朝からお金を見ないようにしとくから。」
なんて、あなたは答えないだろう。
(おそらく、そんな答えで納得する恋人はいない。本書を読んだ直後なら話が一花咲くに違いないが・・・)
だから、怖い。
私たちは、何かする時、理由を持って行動する。
恋人との逢瀬を断るのは、"疲れている、眠い"とか、もっともらしい理由なのだ。
決して、お金を勘定していたからとは思えない。
・・・
だが、本当の理由は、"お金を勘定していたから"かもしれない。
実験の結果がその可能性を物語る。
本書にて語られる内容について。
①人間の意思決定は無意識の中でも影響を受ける。
②無意識の内に影響を受けても、我々は関知できない場合がある。
③それでも、我々はもっともらしい理由を見つけて整合性をとる。
人間の意思決定とは何か?
もしくは、全てを決めているかのような"ワタシ"の存在とは何か?
様々な例、実験の結果を基に紹介している。
素晴らしい本だと思う。
「掏摸」中村文則
天才スリ師。
甘美な響きである。
なんだろう。鮮やかな盗みの手口は、人を酔いしれさせる。
もちろん、悪事である事は重々承知なのだが。
楽しみたい。せめて物語のなかだけでも。
「掏摸」
本書は天才スリ師の話である。
ただし、難攻不落の城からお宝を盗むような話ではない。
一介のスリ師である主人公が巨大な闇に飲み込まれていく話である。
闇・・・いや、運命と言っても良いだろう。
主人公を飲み込むものは、とにかく巨大だ。
飲み込まれる中で必死にもがく。
足掻くほど執拗に絡みつく蜘蛛の巣のようなものなのだけど。
文学的。
且つ、哲学的。
それでいて、エンターテイメントのある作品。
完成度の高さが際立つ傑作。
如何なる人にもオススメできる。
あらすじから引用。
東京を仕事場にする天才スリ師。ある日、彼は「最悪」の男と再会する。
男の名は木崎―かつて仕事をともにした闇社会に生きる男。木崎は彼に、こう囁いた。
「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。逃げれば、あの女と子供を殺す」運命とはなにか、他人の人生を支配するとはどういうことなのか。
そして、社会から外れた人々の切なる祈りとは…。
大江健三郎賞を受賞し、各国で翻訳されたベストセラーが文庫化。
物語は主人公がスリをする所から始まる。
このスリの描写がスゴイ。
リアリティがある。
緊張感が渦を巻き、呼吸を止めたくなるような文章。
財布の重み。そして、体温を感じる。
芥川賞といえば、純文学作家の登竜門である。
大衆向けの作品ではない事が多い。
まぁ、はっきり言うと、娯楽作品ではない(事が多い)。
僕自身、芥川賞を受賞した作家で愛読するのは・・・
理由は単純。
読むと疲れるのである。
彼らの文章を読んでいると、生温い質感の厚い壁で押され続けるような気分になる。
(※時に、その刺激が欲しいから読むのだが。)
(※決して、つまらないわけではない。ただ、疲れるのである)
文章に質感と温度がある。
生温い質感の厚い壁で押され続けるような気分になる。
ただそれでありながら、エンターテイメントを両立している。
ストーリーだけみても、かなりおもしろい。
だから、単純なエンターテイメント作品には飽きた。
だけど、難しすぎる文学作品は敷居が高すぎるなぁ、と思う人にピッタリ。
本書のテーマとして、"運命"が挙げられる。
"運命"とは抗えるものなのか?
もしくは、"運命に抗う事さえも運命だったとしたら?"
運命の中でもがく事に意味はあるのか?
運命はこう言う。
そんなに深刻に考えるな。これまでに、歴史上何百億人という人間が死んでいる。お前はその中の1人になるだけだ。全ては遊びだよ。人生を深刻に考えるな。
その運命に対峙した主人公の姿が鮮明に残る。
このような作品に出会うと、小説っていいなと思う。
「妻を帽子とまちがえた男」オリバー・サックス
「妻を帽子とまちがえた男」
著者:オリバー・サックス
訳者:高見幸郎・金沢泰子
紹介文を引用。
妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家、からだの感覚を失って姿勢が保てなくなってしまった若い母親、オルゴールのように懐かしい音楽が聞こえ続ける老婦人―脳神経科医のサックス博士が出会った奇妙でふしぎな症状を抱える患者たちは、その障害にもかかわらず、人間として精いっぱいに生きていく。
そんな患者たちの豊かな世界を愛情こめて描きあげた、24篇の驚きと感動の医学エッセイの傑作、待望の文庫化。
脳神経科医である著者オリバー・サックスが出会った患者に関するエッセイである。
表題の通り、妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家の話等。
脳の障害を抱えた患者のエッセイ24篇が収録されている。
著者であるオリバー・サックスの患者に対するまなざしが印象に残る。
患者の世界を尊重している事が伝わる。
わざとらしさや、大げさではない。
愛情を込めて患者と向き合った記録である。
例えば、"妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家"の話。
※驚くべきことだが、本当に。脳障害によって男は妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとしたのだ。
※症例としては、顔を認識できなくなる、との状態に近い。
※だが、彼は音楽家として見事なまでの才能を発揮している。
患者と筆者でこんなやり取りがなされる。
患者
「どうなんです、興味ある症例なんでしょ、このわたしは。悪いところを言ってくれませんか。忠告があったら言ってください。」
著者
「どこが悪いのかは、私には言えません。だけど、良いところは言えます。
それはね、あなたはすばらしい音楽家であるということ、そして、音楽はあなたの命だということです。
もし私が処方箋を書くとしたら、あなたにはまったく音楽だけの生活を、とすすめたいところです。
これまで音楽はあなたの生活の中心でした。
でもこれからは、音楽があなたの生活のすべて、というふうにしていいと思いますね。」
障害を抱えた人たちには、彼らだけの世界があって。
私たちは理解し得ないのだけど。
オリバー・サックスはそれをやわらかく見つめる。
そこにあるのは、同情や科学的探究心ではない。
人が、人の世界を認めている"自然さ"である。
本書を読んで思い出したのだが。
脳科学の発展は戦争によってもたらされる、との話を読んだ事がある。
戦争で脳を損傷した人の症状を知る事ができるからである。
脳の損傷と症状の比較により、脳の機能がわかるのだ。
事実。
脳科学の分野での報告は・・・
・"脳のある部分"を損傷した患者がこのような症状に起こした。
・だから"脳のある部分"はこのような役割を担っているのである。
との文脈で語られる事が多い。
脳科学の分野で最も有名であろう患者はイニシャル H.Mである。
(※現在はもう実名がでている。)
H.Mはてんかんの治療のため脳手術を受けた患者。
その際、海馬(脳の一部分)を摘出した結果、新しい記憶が作れなくなった。
新しい記憶を作れなくなったとは?
・今日、初対面で会った人を直後に忘れる(=再び、初対面となる。)
・ただし、子供の時の記憶はしっかりと覚えている。
つまり、新規の記憶を持てなくなったのである。
この臨床結果は、海馬が記憶形成に重要な役割を果たしていると物語っている。
もちろん、この一連の出来事。
"結果的にそうなってしまった"にすぎない。
"海馬を摘出する事で記憶が形成できなくなるのでは?よし、やってみよう・・・"などとの話では決してない。
ただ、このような症例の積み重ねが脳科学の研究を深めている。
この話を読んだ時、人体実験に参加しているようなザラリとした感覚を覚えた記憶がある。
本書もまた症例の積み重ねの一部であるのは間違いない。
ただ、筆者のまなざしは全く異なる。
人と向き合う、やわらかな自然さがある。
読み終えた後、このようなまなざしを持てる人になりたいと思った。
読み解いていくと、<わたし>が霧散する。 そもそも"わたし"とは何であるか?
常に"わたし"は1つである。
全てを決めているのは"わたし"。
明日、会社に行くのも自由。
行きたくなければ、行かなければよい。
決定権は"わたし"にある。
いつも、どんな時にも。
"全ては"わたし"が決めている"とは、現代社会の大前提だと思う。
そうでなければ、犯罪を裁く事ができなくなる。
もし、決定権が"わたし"にないとすれば?
(言い換えると、自分以外によって自分の行動が決定されているなら)
"わたし"が裁かれるのは理不尽になってしまう。
"わたしがやったんじゃない"との言い訳が成立する事になる。
さて、大前提であるはずの"わたし"がどこにあるのか?との問いを取り上げたのが本書。
「<わたし>はどこにあるのか」
著者:マイケル・S・ガザニガ
訳者:藤井留美
本書を読み解いていくと、<わたし>が霧散する。
そもそも"わたし"とは何であるか?
現代人ならば、脳の中にある、と答えるだろうか。
僕自身は脳が主権者であると思っていた。
国王の如く確固たる司令塔。
手を動かしたければ動かせる、走りたければ走れる。
何を行うにせよ、自由。
そして、王様は1人、つまり"わたし"である。
脳が唯一無二の"わたし"を生み出している、との認識であった。
しかし、本書を読むと、その認識が幻想である事がわかる。
筆者はこう主張する。
脳にはありとあらゆる局在的な意識システムが存在しており、その組み合わせが意識の出現を可能にしているのだと思う。
意識感覚はひとつにまとまっているようでいて、実は無数の独立したシステムが形成しているのだ。
ある瞬間にふと意識上にのぼる考えは、そのとき最も優位を獲得したものである。
脳内では、いくつもの意識システムが覇権を争って仁義なき闘いを繰りひろげており、それらを勝ちぬいたものだけに意識という賞品が与えられる。
さて、どういう事か。
意識とは1つにまとまっているように思えるが、決してそうではない。
並列処理の中に意識が発生しているにすぎない。
つまり、王様は幻想、との意味である。
脳の中には責任者がいないのだ。
突然、そんな話を聞かされると、突飛に思えるかもしれない。
だが、本書を読むと、見事に納得する。
では、何故、私たちは統一感を持っているのだろうか?
その事をインタープリター(解釈装置)との働きを持って説明する。
インタープリターとは?
一言で、"つじつま合わせ"である。
簡単な例で説明する。
・例えば、蛇を見て、驚いてパッと身をかわしたとする。
この時、当然、"自分は蛇を見て驚いて身をかわした"と解釈する。
もし、あなたが"何故、身をかわしたの?"と聞かれれば、"蛇が見えたから"と答えるだろう。
実際はどうか?
・意識は蛇を感知していない。
・無意識の中で動いている。
つまり・・・
①蛇が見えた。
②身をかわした。
のプロセスではない。
①身をかわした。
②蛇が見えた。
なのである。
これは、脳内の処理スピードの問題でもある。
通常の手続きでは蛇に噛まれてしまう。
だから、短絡的なルートで動きが処理されているのだ。
ただ、問題は、自分自身がどう感じるか?なのである。
脳は必ず。
"〜だから〜した。"の文脈を好む。
つまり、理由付けをするのだ。
だから、我々は、全ての材料が出揃った所で・・・
私は、蛇が見えたから身をかわしたのだ、と感じる事ができるのだ。
それが、解釈装置である。
この解釈装置のおかげで、我々は全ての事を"わたし"が判断しているように感じるのだ。
この事を深く考えれば考える程、幻想の中に"わたし"がいる事に気づく。
興味深く、且つ、思索の迷宮に入り込めるような本であった。
お腹の中は"体内"ではありません。"体外"です。
お腹の中は体内ではありません。
"はあ?何を寝ぼけたことを?"と思ったかもしれない。
ただ、生物学的な話をすると。
お腹の中は"体内"ではありません。"体外"です。
口から肛門までを1つの管と考える。
これはイメージつくだろう。
口、喉、腸、肛門は1つの管であり、故に我々は排泄が可能になっている。
いわば、ちくわのようなもので。
ちくわの穴は外気に触れているので、外なのである。
そう言われれば、体外か?と思っていただけただろうか。
何故、そんな話をするか?というと。
消化のダイナミズムに感動したからだ。
外的なものを体内に取り込む行為は、生命が長い歴史をかけて会得した力である。
体内と体外。
そこには大きな違いがある。
例えば、元々、牛であった肉が自分の肉に変わるプロセスは並大抵の事ではない。
他者が取り込まれる行為を、食べ物を消化して云々等と表面的に理解していたのでは、生命のダイナミズムは理解できない。
子供の頃、豚肉を食べ続けたら、豚になるのだろうか?と思った事がある。
"豚肉を自分の体重と同じだけ食べたら豚になってしまうに違いない。そろそろ豚肉を食べるのをやめたほうがいいかもしれない"
母親に話をしたら、そんなことをありえない、と一刀両断された記憶がある。
何故なのだろう?
ポイントは、他者を体内に取り入れる重みである。
気軽に他者を取り入れるわけにはいかないのである。
他者を自己に取り入れるとは、簡単な事ではないのだ。
ここらへんの感覚がお腹を体内と考えていると備わらない。
自己の中に他者が入り込んだ副作用としてよく聞くのが、拒絶反応である。
ロボットの腕が故障した際、他のロボットから腕を奪って自分の腕にするシーンを漫画でみたことがある。
ただし、人間はそう簡単にいかない。
自分の腕がなくなったからといって、他の人の腕を移植したら、拒絶反応が起きてショック死する。
臓器移植ではドナーに登録し、自分に適応する提供者が見つかるまで待たなければならないのである。
そうならないために、人は体内に他者を取り入れる時、厳重な注意を払っている。
つまり、元々持っていた他者の情報を一切分解してしまうのである。
それが、消化活動である。
消化とは、何となく溶かして吸収しやすくしている程度のイメージであったが、そう単純なものではない。
例えば、先ほど取り上げた豚肉。
豚肉のたんぱく質とは、豚のDNAが発現した結果である。
つまり、豚のDNAに由来する情報がぎっしりあると言って良い。
そのまま吸収した場合、他者の情報が入り込み、ぶつかり合う結果となる。
それを防ぐために、消化によって、情報を全てバラバラにしてしまう。
我々の体内に入る頃には、もはや豚の情報はなくなっているのである。
※たんぱく質とは、アミノ酸がDNAによって発現した結果である。
※消化は、たんぱく質をアミノ酸に戻す事によって、何者でもない状態にしてしまう。
イメージしやすいように。
・アミノ酸は材料。
・DNAは設計図。
・たんぱく質が構成物、である。
つまり、
①豚のDNAによって発現したたんぱく質を、材料であるアミノ酸に戻す。
②人間のDNAによって新たに発現させ、たんぱく質を作っている、
とのプロセスを踏んでいるのである。
お腹の中が体外である、とはそういう意味だ。
あくまで、外なのである。
外であるからこそ、他者を取り入れる事ができる。
我々の内部に入る頃には、もう他者であった跡形もない状態なのである。
僕自身が驚いたのは、生命の緻密さである。
他者は自己になり、自己もまた他者になりうる。
いわば、リサイクルの思想。輪廻転生。
生命はダイナミズムの中に存在している。
ちなみに、読んだのはこの本。
"ミクロの世界は常に正しい。" "錯誤は脳内で蒸発する。"
意識に関する本を読んでいたら、こんな事が書いてあった。
・"ミクロの世界は常に正しい。"
・"錯誤は脳内で蒸発する。"
個人的に、納得いく部分あり。
思わず、だからかぁ!と色々な事柄が腑に落ちた。
何の事か?
簡単に説明する。
例えば、"幻聴"。
聴こえていないものが当人だけ聴こえてしまう事である。
"あれ?今、赤ん坊の笑い声がした・・・。"的な話。
まぁ、心霊スポットでも思い浮かべていただきたい。
無論、実際に赤ん坊の声はしていない事を前提とする。
実際に赤ん坊の声はしていないのに、当人は聴こえている状態。
これが、幻聴である。
赤ん坊の声はしていないのだから、勘違い、錯誤である。
隣に人がいれば、"気のせいだよ〜"とポンと肩を叩かれておしまい。
"あ、そっか〜"でめでたしめでたし。
さて、この時に勘違いを起こした人の脳の中では何が起きているか?が問題である。
先に答えを言うと。
幻聴がした時・・・
脳内の活動的には、”赤ん坊の声が実際に聴こえている"。
つまり、脳内に限れば、赤ん坊の声が聴こえるの正しいのである。
どういう事か?
脳内の活動とは、神経活動である。
赤ん坊の声が聴こえるとは、ある領域の神経活動が見られる状態を指す。
測定器を用いて、神経活動を調べる。
そうすると・・・
①錯誤の状態(幻聴:赤ん坊は存在すらしない)
②正常な状態(実際に赤ん坊が笑っている。)
の神経活動的な区別はつかないようである。
つまり、同じ神経活動をしている。
要するに・・・
①錯誤の神経活動
②正常な神経活動
を知らずに比較すれば全く同じ神経活動と捉えてしまうとの事。
これは即ち、脳内では(自分では)一切区別がつかない事を意味する。
これが、
・"ミクロの世界は常に正しい。"
・"錯誤は脳内で蒸発する。"
の意味である。
実際に音はしていない状況。
当人だけの幻聴であったとしても。
脳内のミクロの世界では実際に音がしている(神経活動だけをみれば)。
錯誤が脳内で蒸発しているのである。
さて、この"ミクロの世界は常に正しい。"と"錯誤は脳内で蒸発する"について考えた事を少々。
まず、脳の基本的な仕組みが"錯誤を蒸発させる"ってどうよ?
実際に正しかろうが、正しくなかろうが・・・
当人の中では正しい事として処理しているのである。
幻聴の話で言えば、音がしてようが、してまいが。
個人的に思ったのは。
多くの人が、"常に自分は正しいと思っている。だって、脳はそういう風にできているんだもん"って事。
間違えを認める人だっているじゃないか!と言うかもしれない。
しかし、極端な話。
"自分に非がある事を認めた人"すらも、"自分に非があると認める自分"を正しいと思っているのではないか。
脳が自分を正しいと思う習性がある気がする。
人は錯誤を蒸発させる生き物であると思えてくる。
結局、人と人はつまり、ミクロとミクロなので。
詰まるところ、正しいと正しいの対決なのである。
生きていると、何故、こんな事で怒るのだろう?とか。
全く理解し得ない行動をする人が時々いる。
それに対して、どう考えたら?とか、何を考えているのだろう?とか、あれこれ考えて理解しようとしたが・・・
理解できない場合が多い。
その理由が1つわかった気がする。
向こうは向こうで自分が正しいと思っているのである。
そういう風に脳内が活動しているのだ。
当人は錯誤を蒸発させて正しいと思い込んでいるのである。
もし、客観的に第三者が見て正しいと思えない場合でも、脳内で変換する事なんざ、お手のものなのである。
だって、音がしなくても、神経活動は起こりうるのだから。
神経活動は個人の完結した世界の中では嘘をつかない。
自分が正しいと思う事の危うさをまざまざと思い知らされる。
ただ、そういうものだと思えば、自分の正当性に基づいた怒りは存在し得ない事になる。
どっちもどっちと思えば、気も楽になるのだろうか。
たんぱく質とDNAの関係
"ボディビルダーが飲んでいるヤツね。"とか。
"お肉に多く含まれている栄養素ですよね。"・・・
程度のイメージであろうか。
"俺、プロテインなくっちゃ生きていけないっす。"
と発言したら、筋肉バカだと思われます。
ただ、先に言うと。
生命はたんぱく質なしでは生きていけない。
人体で水分を除く固形分のうち60%以上がたんぱく質なのである。
筋肉、髪の毛、臓器等、重要な部分はたんぱく質でできている。
たんぱく質と言われると。
"マッチョがこよなく愛する栄養素だろ?なんか名前もダセェな。"程度の認識であったが、ガラリと見方が変わる。
物事に対する見方が変わる本は良書だと思う。
「たんぱく質入門」
本書は中高生向け。
(教科書じゃ飽きたらない人用の)
文系が興味を持った程度の人に調度良い構成になっている。
武村政春さんは「ウイルス入門」たる本も書いており、スタンスは全く同じ。
こういう人の本は全部読んでみたくなる。
人体の重要な部分を担うたんぱく質。
そもそも、どうやって作られるのか?
(※じゃあ、アミノ酸って何だ?との疑問はさておく。)
アミノ酸は20種類あり、様々な組み合わせによりたんぱく質ができる。
筋肉、髪の毛、臓器・・・。
一見、違うものに思えるが、全てたんぱく質である。
要するに、アミノ酸の組み合わせによりけりとの事。
材料が同じでも違うものができる。
同じ木が机になったり、椅子になるのと同じである。
アミノ酸は20種類あり、組み合わせによりいかようにもたんぱく質は形成される。
種類は数千万に及ぶそうである。
では、その20種類あるアミノ酸の組み合わせを決めているのか?というと。
人体の中に設計図がある。
アミノ酸をどう組み合わせて、どんなたんぱく質を形成するかを決めているものがある。
それは何か?・・・
DNAである。
たんぱく質の設計図はDNAなのである。
今まで、DNAと言われると、犯罪捜査で使われるもの、程度の認識であった。
具体的に役割を言うと、たんぱく質の形成に重要な役割を果たしている。
"材料:アミノ酸+設計図:DNA→結果:たんぱく質"ができる。
この時点で。
たんぱく質がいかに大切なものかお分かりであろうか?
DNAは所詮、設計図。
実際に出来上がっているものは"たんぱく質"なのである。
家で例えると。
・建築の設計図(DNA)
・材料(木材)
・家そのもの(たんぱく質)
結局、大事なのは、家そのものだと思うわけである。
別に、文句を言うわけではないが。
他の名前なかったのかな?たんぱく質、と思ったりもする。
名前に引きずられて重要性が薄れているものって、時々ある。
たんぱく質についておもしろき、と思った事。
・我々は基本的にたんぱく質(肉など)を摂取する。
・食べたたんぱく質をそのまま活用はしない。
・たんぱく質をアミノ酸に分解(消化活動)して、再度、DNAの設計図を基にたんぱく質を作り上げる。
牛肉を食べても牛にならないのはそういうわけである。
牛肉だったたんぱく質はアミノ酸に分解されてから、再度、我々のDNA(設計図)の基にたんぱく質となる。
だから、自分の髪の毛は元々、牛肉だったかもしれない、のである。
そして、またどこかでアミノ酸に分解される、なんて事を繰り返している。
生命って不思議ですね。
こういう本を読んでいると、輪廻転生は本質を捉えていると思う。