映画「リリーのすべて」
夫が女性として生きたいと願った時、妻はすべてを受け入れた。
映画「リリーのすべて」
本作のテーマは"性転換"である。
男性として生を受けた主人公が、女性として生きる事を望む。
舞台は1926年のデンマーク。
世界で初めて性別適合手術を受けたリリー・エルベの実話を描いた伝記ドラマである。
主人公の名前はアイナー。風景画家である。
妻はゲルダ。同じく画家。
画家夫婦は、幸せに暮らしている。
ある時、妻のゲルダに頼まれて夫アイナーは女性モデルの代役を務める。
その時、物語が動き出す。
女性モデル用のストッキングとドレスを手にした時・・・
アイナーは自分の中に"女性としての自分"がいる事に気づく。
それが、"リリー"である。
そこから男性アイナーは女性リリーとして生きる事を望むようになる。
"女性としての自分"について。
男性として生まれながら、女性としての内面に気づく。
言葉にするのは簡単である。
ただ、その感情を理解するのは難しい。
本作では、その理解し難い感情が巧みに表現される。
内側からくる衝動。
男として存在している事への違和感。
単純なセリフで表現されるのではない。
指先やまなざしをもって感情が伝わる。
・・・葛藤は深い。
アイナーは、女装をしてリリーとして生きる事に喜びを見出す。
一方、妻のゲルダは、夫であるアイナーを失う事に煩悶する。
当然の話である、と思う。
夫・男性として愛したはずの人が、女性になりたいと言うのだから。
本作は、リリー(アイナー)が主人公であるが、一方で妻のゲルダの物語でもある。
夫が女性として生きたいと望んだ時、妻はどのような思いを抱くのか?
もしくは、何をしてあげるのか?
愛する人。
愛する夫。
…
2つの表現は一般的には同じ事と捉えられる。
だが、本作においては意味合いが異なる。
"愛する人"を支える事は、"愛する夫"を失う事を意味する。
この葛藤をゲルダは一身に背負う。
そして、物語が佳境に入る所でリリーはある可能性を知る。
それが、"性別適合手術"である。
つまり、肉体的に女性となるための手術だ。
1920年代なので、命の危険もあると医者からは説明を受ける。
だけど、本当の自分になる事ができる。
・・・
女性として生きたい、そう願うリリーの思いは切実だ。
極めて繊細な作品。
面白かった、と単なる言葉で表現できず。
美しく心に残る秀作。
観終えて。
人を愛する事の意味を考える。
夫として愛するのではなく。
1人の人間として愛した。
自分だったらどうだろう?と考えた時。
つながりの深さに心が揺さぶられる。
映画「オデッセイ」
"孤独な男"。
ただし、想像の範疇を大きく超える孤独である。
何故なら、その男は・・・
"火星にただ一人置いてかれた"のだ。
もう一度繰り返す。
"火星にたった1人、取り残された"のである。
地球までの距離 2億㌔以上との事。
想像してみましょう。
一番近い人間が2億㌔以上離れた所にいる状況を・・・。
当然、生き物もいませんよ。
・・・
孤独どころの話ではございません。
映画オデッセイ。
原作があるらしいが未読。
本作はサバイバル映画である。
マット・デイモン演じる主人公が、火星に独り取り残される話である。
置いてけぼりになったが、生き残ろうとする話である。
くどいようだが、"火星にたった一人になった男"の生き残りをかけた闘いだ。
火星で独り生き残ろうとする話?
どうやって?水も食料もないのに?
なんなら、酸素すらないんですよ?
・・・
と、数多の疑問が浮かぶに違いない・・・。
その辺りは観てのお楽しみ。
ただ、先に言っておくが。
本作は、リアリティのない作品ではない。
※少なくとも一般的な観客からすると。
※プロの宇宙関係者が見たらどうか知らないっすよ。
例を挙げると・・・
・火星でジャガイモを育てようとする。食べるために。
火星×ジャガイモ=どうやって???
本作の見所はこの辺りである。
火星とジャガイモのギャップが魅力的。
さて。
日常生活で、火星に取り残されるような事はなく・・・
心情、推し量るのも憚られるが。
思うに、絶望的な状況だと思う。
火星に独りなのだから当たり前だ。
僕なんて、残業中に会社で独りになった時ですら絶望感を感じる。
絶望の深さは、比ではない。
命を天秤にかけた状態で火星に独り、である。
・・・
それでも、男は前を向いた。
そう、明るいのである。
悲壮感がない。
彼を見ていると、希望が湧く。
と、多くの人が語るであろう。
人は孤独でも希望を生み出す事ができるのだと教えられる。
宇宙映画と言うと。
ドンパチやるSFやら、地球に向かう隕石を破壊しようとする感動モノが思い浮かぶが、本作は毛色が違う。
科学を武器に生き残ろうとする闘いです。
それにしても、火星に1人、とのシチュエーションで良くもまぁこんなに面白い作品を仕上げたものだ。
2人ならわかる。
→会話が可能だから。
1人なのにどうやって物語を進めるの?と思うでしょう。
心配することなかれ。
観ればわかります。実に展開が巧みです。
本作。
少し変わった見方をすると。
・仕事上におけるマネジメントの大切さを学べる。
宇宙に関する仕事はチーム戦であるが故。
一体感なくして成立せず。
さて。
最後にまとめ。
・実におもしろい作品だと思います。
・多くの人が星4つ以上をつけるのでは?☆☆☆☆
・あえて言うならば、細部のまとまりに欠けた。
→特に原作を読んだ人がどう感じるかが不明。
・マット・デイモンの明るさに救われます。
"免疫力を高めたければ、今日を笑って楽しく生きましょうや。"「笑いの免疫力」
"免疫力を高めたければ、今日を笑って楽しく生きましょうや。"
と主張する人の書いた本である。
「笑う免疫学」
僕は、この"笑う免疫学"みたいな考え方が結構好き。
笑っていようが、病気になる時はあると思います。
万能薬ではないでしょう。
でも、笑う事で元気になれる(=免疫力が高まる)なんて、ステキな話じゃないですか。
笑う門には福来たる、です。
ただ、本書は"笑えば健康になれますよ〜"との薄っぺらい精神論のみを述べた本ではない。
免疫の仕組みを一通り、バランス良く知る事ができる。
免疫についての入門書と捉えてよいだろう。
本書にて。
体の免疫力で重要なのは・・・
・腸が70%
・心が30%
と書かれている。
つまり、30%の部分が"笑って生きましょうや"である。
では?残りの70%は・・・
腸。
腸?なんで?そんな重要なの?と思った人。
問答無用で読んだほうが良い。
腸の状態は免疫力に大きく関係する。
ポイントは"腸内細菌"である。
腸内細菌について知ると、"細菌"のイメージを一変する。
僕自身、"細菌"と聞くと・・・
"目に見えないけど、人体に悪影響を及ぼす悪い奴ら"程度のイメージしかなかったのだが・・・
実際は、重要な役割を果たしている事がわかる。
本書の内容を引用すると・・・
人間がここまで進化出来たのは、腸内細菌を腸に棲ませたからである、とまで語る。腸内細菌はいい仕事してますよ。
免疫について思う事。
まず、免疫力がなくては人は生きていけない。
それを前提に・・・
免疫力を手に入れるために、腸内細菌は不可欠である。
並べると、生きていくために腸内細菌が必須である事を意味する。
この"細菌との共生"の考え方が、僕にとって馴染みのあるものではなかった。
(皆が皆、同じように思っているとは限らないが・・・)
僕自身にとって、"抗菌は正義!殺菌は善!"みたいな感覚があった。
この感覚が・・・
・"手洗いうがいをしましょう"とのスローガンの元に植え付けられたのか?
はたまた・・
"抗菌を売りにする資本主義市場"により刷り込まれたのか?
は不明である。
ただ、間違いなく。
とにかく菌を滅殺すれば健康になれますよ、みたいな発想は間違っている。
なんなら、菌を体内に入れた方が腸内細菌が活発になるから良いようである。
もし、子供ができたら、"公園で遊んじゃダメ!!!バイ菌がいっぱいだから!!!"とは、言わない方が元気に育つようです。
名著発見!!!「ファスト&スロー」
2016年は、この本に出会えただけで価値あり!!!
と断言したくなる。まごうことなき名著。
間違いなく再読する。
「ファスト&スロー」
ダニエル・カーネマン
分厚い本で読了には時間がかかる。
ただ、それだけの価値がある事を保証。
※良書のため何回かに分けてブログで紹介する。
副題"あなたの意志はどう決まるか?"
人間の意思決定サイクルを丁寧に説明してくれる。
意思決定サイクル?
「そんなもの知らねえよ。自分の意志を決めているのは俺自身だ。」
と思ったあなた、大間違いである。
本書を読むと、
人間の意思決定サイクルが如何に無意識に行われているか?がわかる。
言い換えると・・・
人間の意思決定は無意識の内に決定されている部分が多い。
例えば、もし、あなたが・・・
水面に浮かんでいるお札のスクリーンセーバーを使っていたら・・・
あなたは知らない人がうかつにも鉛筆を落としてぶちまけた時、少ししか拾ってあげないだろう。
パッと読むとワケがわからない。
水面に浮かんでいるお札のスクリーンセーバー?鉛筆?
なんじゃそりゃ?である。
過去に経験がないから誰もがピンとこないのである。
ただし、本書の内容は"お札のスクリーンセーバー×ぶちまけられた鉛筆"の話を見事に納得させる。
本書にて、ある実験を紹介する。
被験者を
①"お金を連想させるもの"を見せるグループ
②見せないグループ
に分ける。
当然、①と②。
"お金を連想させるものを見たかどうか?"で行動にどのような影響がでるか?を確かめる実験である。
結論を先に言う。
・"お金を連想させるもの"を見た被験者は、自立心と利己心が高まった。
具体的に。
・被験者に対し、"鉛筆を落としてぶちまけた所、拾う本数が少なくなった"。
これはあくまで実験の結果である。
結果的に、そのようになりました、と言われれば納得できる気がする。
ただし、問題は・・・
そのような結果になる(心理的な影響を受ける)と今まで思いもしなかった事である。
無意識に行動が影響を受けているのだ。
つまり、お金のイメージによって、自立心や利己心が高まると意識できないのである。
この"無意識"がポイントである。
もし、あなたが部屋でお金の勘定をしている時・・・
突然、恋人から電話がかかってきて
"ねぇ、今から会えない?"と聞いたとする。
あなたはそんな気分になれない・・・。
すると、こう答えるに違いない。
「いや、今日はちょっと疲れているからまた明日にしようよ。」
・・・
当然、結果論で話をしている。
お金の勘定をしていなくても、あなたは今日は会う気分になれなかったかもしれない。
ただ、あなたは、"お金の勘定をしていた事で心理的な影響を受けていた可能性がある"のである。
そして、同じシチュエーションを何度繰り返したとしても・・・
「ごめん、今、お金の勘定をしていてさ。ちょっと自立心と利己心が高まってるんだ。だから、明日会おうよ。朝からお金を見ないようにしとくから。」
なんて、あなたは答えないだろう。
(おそらく、そんな答えで納得する恋人はいない。本書を読んだ直後なら話が一花咲くに違いないが・・・)
だから、怖い。
私たちは、何かする時、理由を持って行動する。
恋人との逢瀬を断るのは、"疲れている、眠い"とか、もっともらしい理由なのだ。
決して、お金を勘定していたからとは思えない。
・・・
だが、本当の理由は、"お金を勘定していたから"かもしれない。
実験の結果がその可能性を物語る。
本書にて語られる内容について。
①人間の意思決定は無意識の中でも影響を受ける。
②無意識の内に影響を受けても、我々は関知できない場合がある。
③それでも、我々はもっともらしい理由を見つけて整合性をとる。
人間の意思決定とは何か?
もしくは、全てを決めているかのような"ワタシ"の存在とは何か?
様々な例、実験の結果を基に紹介している。
素晴らしい本だと思う。
「掏摸」中村文則
天才スリ師。
甘美な響きである。
なんだろう。鮮やかな盗みの手口は、人を酔いしれさせる。
もちろん、悪事である事は重々承知なのだが。
楽しみたい。せめて物語のなかだけでも。
「掏摸」
本書は天才スリ師の話である。
ただし、難攻不落の城からお宝を盗むような話ではない。
一介のスリ師である主人公が巨大な闇に飲み込まれていく話である。
闇・・・いや、運命と言っても良いだろう。
主人公を飲み込むものは、とにかく巨大だ。
飲み込まれる中で必死にもがく。
足掻くほど執拗に絡みつく蜘蛛の巣のようなものなのだけど。
文学的。
且つ、哲学的。
それでいて、エンターテイメントのある作品。
完成度の高さが際立つ傑作。
如何なる人にもオススメできる。
あらすじから引用。
東京を仕事場にする天才スリ師。ある日、彼は「最悪」の男と再会する。
男の名は木崎―かつて仕事をともにした闇社会に生きる男。木崎は彼に、こう囁いた。
「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。逃げれば、あの女と子供を殺す」運命とはなにか、他人の人生を支配するとはどういうことなのか。
そして、社会から外れた人々の切なる祈りとは…。
大江健三郎賞を受賞し、各国で翻訳されたベストセラーが文庫化。
物語は主人公がスリをする所から始まる。
このスリの描写がスゴイ。
リアリティがある。
緊張感が渦を巻き、呼吸を止めたくなるような文章。
財布の重み。そして、体温を感じる。
芥川賞といえば、純文学作家の登竜門である。
大衆向けの作品ではない事が多い。
まぁ、はっきり言うと、娯楽作品ではない(事が多い)。
僕自身、芥川賞を受賞した作家で愛読するのは・・・
理由は単純。
読むと疲れるのである。
彼らの文章を読んでいると、生温い質感の厚い壁で押され続けるような気分になる。
(※時に、その刺激が欲しいから読むのだが。)
(※決して、つまらないわけではない。ただ、疲れるのである)
文章に質感と温度がある。
生温い質感の厚い壁で押され続けるような気分になる。
ただそれでありながら、エンターテイメントを両立している。
ストーリーだけみても、かなりおもしろい。
だから、単純なエンターテイメント作品には飽きた。
だけど、難しすぎる文学作品は敷居が高すぎるなぁ、と思う人にピッタリ。
本書のテーマとして、"運命"が挙げられる。
"運命"とは抗えるものなのか?
もしくは、"運命に抗う事さえも運命だったとしたら?"
運命の中でもがく事に意味はあるのか?
運命はこう言う。
そんなに深刻に考えるな。これまでに、歴史上何百億人という人間が死んでいる。お前はその中の1人になるだけだ。全ては遊びだよ。人生を深刻に考えるな。
その運命に対峙した主人公の姿が鮮明に残る。
このような作品に出会うと、小説っていいなと思う。
「妻を帽子とまちがえた男」オリバー・サックス
「妻を帽子とまちがえた男」
著者:オリバー・サックス
訳者:高見幸郎・金沢泰子
紹介文を引用。
妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家、からだの感覚を失って姿勢が保てなくなってしまった若い母親、オルゴールのように懐かしい音楽が聞こえ続ける老婦人―脳神経科医のサックス博士が出会った奇妙でふしぎな症状を抱える患者たちは、その障害にもかかわらず、人間として精いっぱいに生きていく。
そんな患者たちの豊かな世界を愛情こめて描きあげた、24篇の驚きと感動の医学エッセイの傑作、待望の文庫化。
脳神経科医である著者オリバー・サックスが出会った患者に関するエッセイである。
表題の通り、妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家の話等。
脳の障害を抱えた患者のエッセイ24篇が収録されている。
著者であるオリバー・サックスの患者に対するまなざしが印象に残る。
患者の世界を尊重している事が伝わる。
わざとらしさや、大げさではない。
愛情を込めて患者と向き合った記録である。
例えば、"妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家"の話。
※驚くべきことだが、本当に。脳障害によって男は妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとしたのだ。
※症例としては、顔を認識できなくなる、との状態に近い。
※だが、彼は音楽家として見事なまでの才能を発揮している。
患者と筆者でこんなやり取りがなされる。
患者
「どうなんです、興味ある症例なんでしょ、このわたしは。悪いところを言ってくれませんか。忠告があったら言ってください。」
著者
「どこが悪いのかは、私には言えません。だけど、良いところは言えます。
それはね、あなたはすばらしい音楽家であるということ、そして、音楽はあなたの命だということです。
もし私が処方箋を書くとしたら、あなたにはまったく音楽だけの生活を、とすすめたいところです。
これまで音楽はあなたの生活の中心でした。
でもこれからは、音楽があなたの生活のすべて、というふうにしていいと思いますね。」
障害を抱えた人たちには、彼らだけの世界があって。
私たちは理解し得ないのだけど。
オリバー・サックスはそれをやわらかく見つめる。
そこにあるのは、同情や科学的探究心ではない。
人が、人の世界を認めている"自然さ"である。
本書を読んで思い出したのだが。
脳科学の発展は戦争によってもたらされる、との話を読んだ事がある。
戦争で脳を損傷した人の症状を知る事ができるからである。
脳の損傷と症状の比較により、脳の機能がわかるのだ。
事実。
脳科学の分野での報告は・・・
・"脳のある部分"を損傷した患者がこのような症状に起こした。
・だから"脳のある部分"はこのような役割を担っているのである。
との文脈で語られる事が多い。
脳科学の分野で最も有名であろう患者はイニシャル H.Mである。
(※現在はもう実名がでている。)
H.Mはてんかんの治療のため脳手術を受けた患者。
その際、海馬(脳の一部分)を摘出した結果、新しい記憶が作れなくなった。
新しい記憶を作れなくなったとは?
・今日、初対面で会った人を直後に忘れる(=再び、初対面となる。)
・ただし、子供の時の記憶はしっかりと覚えている。
つまり、新規の記憶を持てなくなったのである。
この臨床結果は、海馬が記憶形成に重要な役割を果たしていると物語っている。
もちろん、この一連の出来事。
"結果的にそうなってしまった"にすぎない。
"海馬を摘出する事で記憶が形成できなくなるのでは?よし、やってみよう・・・"などとの話では決してない。
ただ、このような症例の積み重ねが脳科学の研究を深めている。
この話を読んだ時、人体実験に参加しているようなザラリとした感覚を覚えた記憶がある。
本書もまた症例の積み重ねの一部であるのは間違いない。
ただ、筆者のまなざしは全く異なる。
人と向き合う、やわらかな自然さがある。
読み終えた後、このようなまなざしを持てる人になりたいと思った。
読み解いていくと、<わたし>が霧散する。 そもそも"わたし"とは何であるか?
常に"わたし"は1つである。
全てを決めているのは"わたし"。
明日、会社に行くのも自由。
行きたくなければ、行かなければよい。
決定権は"わたし"にある。
いつも、どんな時にも。
"全ては"わたし"が決めている"とは、現代社会の大前提だと思う。
そうでなければ、犯罪を裁く事ができなくなる。
もし、決定権が"わたし"にないとすれば?
(言い換えると、自分以外によって自分の行動が決定されているなら)
"わたし"が裁かれるのは理不尽になってしまう。
"わたしがやったんじゃない"との言い訳が成立する事になる。
さて、大前提であるはずの"わたし"がどこにあるのか?との問いを取り上げたのが本書。
「<わたし>はどこにあるのか」
著者:マイケル・S・ガザニガ
訳者:藤井留美
本書を読み解いていくと、<わたし>が霧散する。
そもそも"わたし"とは何であるか?
現代人ならば、脳の中にある、と答えるだろうか。
僕自身は脳が主権者であると思っていた。
国王の如く確固たる司令塔。
手を動かしたければ動かせる、走りたければ走れる。
何を行うにせよ、自由。
そして、王様は1人、つまり"わたし"である。
脳が唯一無二の"わたし"を生み出している、との認識であった。
しかし、本書を読むと、その認識が幻想である事がわかる。
筆者はこう主張する。
脳にはありとあらゆる局在的な意識システムが存在しており、その組み合わせが意識の出現を可能にしているのだと思う。
意識感覚はひとつにまとまっているようでいて、実は無数の独立したシステムが形成しているのだ。
ある瞬間にふと意識上にのぼる考えは、そのとき最も優位を獲得したものである。
脳内では、いくつもの意識システムが覇権を争って仁義なき闘いを繰りひろげており、それらを勝ちぬいたものだけに意識という賞品が与えられる。
さて、どういう事か。
意識とは1つにまとまっているように思えるが、決してそうではない。
並列処理の中に意識が発生しているにすぎない。
つまり、王様は幻想、との意味である。
脳の中には責任者がいないのだ。
突然、そんな話を聞かされると、突飛に思えるかもしれない。
だが、本書を読むと、見事に納得する。
では、何故、私たちは統一感を持っているのだろうか?
その事をインタープリター(解釈装置)との働きを持って説明する。
インタープリターとは?
一言で、"つじつま合わせ"である。
簡単な例で説明する。
・例えば、蛇を見て、驚いてパッと身をかわしたとする。
この時、当然、"自分は蛇を見て驚いて身をかわした"と解釈する。
もし、あなたが"何故、身をかわしたの?"と聞かれれば、"蛇が見えたから"と答えるだろう。
実際はどうか?
・意識は蛇を感知していない。
・無意識の中で動いている。
つまり・・・
①蛇が見えた。
②身をかわした。
のプロセスではない。
①身をかわした。
②蛇が見えた。
なのである。
これは、脳内の処理スピードの問題でもある。
通常の手続きでは蛇に噛まれてしまう。
だから、短絡的なルートで動きが処理されているのだ。
ただ、問題は、自分自身がどう感じるか?なのである。
脳は必ず。
"〜だから〜した。"の文脈を好む。
つまり、理由付けをするのだ。
だから、我々は、全ての材料が出揃った所で・・・
私は、蛇が見えたから身をかわしたのだ、と感じる事ができるのだ。
それが、解釈装置である。
この解釈装置のおかげで、我々は全ての事を"わたし"が判断しているように感じるのだ。
この事を深く考えれば考える程、幻想の中に"わたし"がいる事に気づく。
興味深く、且つ、思索の迷宮に入り込めるような本であった。