のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

お腹の中は"体内"ではありません。"体外"です。

お腹の中は体内ではありません。

"はあ?何を寝ぼけたことを?"と思ったかもしれない。

ただ、生物学的な話をすると。

お腹の中は"体内"ではありません。"体外"です。

 

口から肛門までを1つの管と考える。

これはイメージつくだろう。

口、喉、腸、肛門は1つの管であり、故に我々は排泄が可能になっている。

いわば、ちくわのようなもので。

ちくわの穴は外気に触れているので、外なのである。

そう言われれば、体外か?と思っていただけただろうか。

 

何故、そんな話をするか?というと。

消化のダイナミズムに感動したからだ。

外的なものを体内に取り込む行為は、生命が長い歴史をかけて会得した力である。

 

体内と体外。

そこには大きな違いがある。

 

例えば、元々、牛であった肉が自分の肉に変わるプロセスは並大抵の事ではない。

他者が取り込まれる行為を、食べ物を消化して云々等と表面的に理解していたのでは、生命のダイナミズムは理解できない。

 

子供の頃、豚肉を食べ続けたら、豚になるのだろうか?と思った事がある。

"豚肉を自分の体重と同じだけ食べたら豚になってしまうに違いない。そろそろ豚肉を食べるのをやめたほうがいいかもしれない"

母親に話をしたら、そんなことをありえない、と一刀両断された記憶がある。

何故なのだろう?

 

ポイントは、他者を体内に取り入れる重みである。

気軽に他者を取り入れるわけにはいかないのである。

他者を自己に取り入れるとは、簡単な事ではないのだ。

ここらへんの感覚がお腹を体内と考えていると備わらない。

 

自己の中に他者が入り込んだ副作用としてよく聞くのが、拒絶反応である。

ロボットの腕が故障した際、他のロボットから腕を奪って自分の腕にするシーンを漫画でみたことがある。

ただし、人間はそう簡単にいかない。

自分の腕がなくなったからといって、他の人の腕を移植したら、拒絶反応が起きてショック死する。

臓器移植ではドナーに登録し、自分に適応する提供者が見つかるまで待たなければならないのである。

 

そうならないために、人は体内に他者を取り入れる時、厳重な注意を払っている。

つまり、元々持っていた他者の情報を一切分解してしまうのである。

それが、消化活動である。

 

消化とは、何となく溶かして吸収しやすくしている程度のイメージであったが、そう単純なものではない。

 

例えば、先ほど取り上げた豚肉。

豚肉のたんぱく質とは、豚のDNAが発現した結果である。

つまり、豚のDNAに由来する情報がぎっしりあると言って良い。

そのまま吸収した場合、他者の情報が入り込み、ぶつかり合う結果となる。

それを防ぐために、消化によって、情報を全てバラバラにしてしまう。

我々の体内に入る頃には、もはや豚の情報はなくなっているのである。

 

たんぱく質とは、アミノ酸がDNAによって発現した結果である。

※消化は、たんぱく質アミノ酸に戻す事によって、何者でもない状態にしてしまう。

 

イメージしやすいように。

アミノ酸は材料。

・DNAは設計図。

たんぱく質が構成物、である。

 

・豚のDNAはアミノ酸を豚のたんぱく質に変える。

・人間のDNAはアミノ酸を人間のたんぱく質に変える。

 

つまり、

①豚のDNAによって発現したたんぱく質を、材料であるアミノ酸に戻す。

②人間のDNAによって新たに発現させ、たんぱく質を作っている、

とのプロセスを踏んでいるのである。

 

お腹の中が体外である、とはそういう意味だ。

あくまで、外なのである。

外であるからこそ、他者を取り入れる事ができる。

我々の内部に入る頃には、もう他者であった跡形もない状態なのである。

 

僕自身が驚いたのは、生命の緻密さである。

他者は自己になり、自己もまた他者になりうる。

いわば、リサイクルの思想。輪廻転生。

生命はダイナミズムの中に存在している。

 

ちなみに、読んだのはこの本。

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"ミクロの世界は常に正しい。" "錯誤は脳内で蒸発する。"

意識に関する本を読んでいたら、こんな事が書いてあった。

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・"ミクロの世界は常に正しい。"

・"錯誤は脳内で蒸発する。"

 

個人的に、納得いく部分あり。

思わず、だからかぁ!と色々な事柄が腑に落ちた。

 

何の事か?

簡単に説明する。

 

例えば、"幻聴"。

聴こえていないものが当人だけ聴こえてしまう事である。

 

"あれ?今、赤ん坊の笑い声がした・・・。"的な話。

 

まぁ、心霊スポットでも思い浮かべていただきたい。

無論、実際に赤ん坊の声はしていない事を前提とする。

実際に赤ん坊の声はしていないのに、当人は聴こえている状態。

これが、幻聴である。

 

赤ん坊の声はしていないのだから、勘違い、錯誤である。

隣に人がいれば、"気のせいだよ〜"とポンと肩を叩かれておしまい。

"あ、そっか〜"でめでたしめでたし。

 

さて、この時に勘違いを起こした人の脳の中では何が起きているか?が問題である。

 

先に答えを言うと。

幻聴がした時・・・

脳内の活動的には、”赤ん坊の声が実際に聴こえている"。

つまり、脳内に限れば、赤ん坊の声が聴こえるの正しいのである。

 

どういう事か? 

脳内の活動とは、神経活動である。

赤ん坊の声が聴こえるとは、ある領域の神経活動が見られる状態を指す。

 

測定器を用いて、神経活動を調べる。

 

そうすると・・・

①錯誤の状態(幻聴:赤ん坊は存在すらしない)

②正常な状態(実際に赤ん坊が笑っている。)

の神経活動的な区別はつかないようである。

つまり、同じ神経活動をしている。

 

要するに・・・

①錯誤の神経活動

②正常な神経活動

を知らずに比較すれば全く同じ神経活動と捉えてしまうとの事。

これは即ち、脳内では(自分では)一切区別がつかない事を意味する。

 

これが、

・"ミクロの世界は常に正しい。"

・"錯誤は脳内で蒸発する。"

の意味である。

 

実際に音はしていない状況。

当人だけの幻聴であったとしても。

脳内のミクロの世界では実際に音がしている(神経活動だけをみれば)。

錯誤が脳内で蒸発しているのである。

 

さて、この"ミクロの世界は常に正しい。"と"錯誤は脳内で蒸発する"について考えた事を少々。

 

まず、脳の基本的な仕組みが"錯誤を蒸発させる"ってどうよ?

実際に正しかろうが、正しくなかろうが・・・

当人の中では正しい事として処理しているのである。

幻聴の話で言えば、音がしてようが、してまいが。

 

個人的に思ったのは。

多くの人が、"常に自分は正しいと思っている。だって、脳はそういう風にできているんだもん"って事。

 

間違えを認める人だっているじゃないか!と言うかもしれない。 

しかし、極端な話。

"自分に非がある事を認めた人"すらも、"自分に非があると認める自分"を正しいと思っているのではないか。

 

脳が自分を正しいと思う習性がある気がする。

人は錯誤を蒸発させる生き物であると思えてくる。

結局、人と人はつまり、ミクロとミクロなので。

詰まるところ、正しいと正しいの対決なのである。

 

生きていると、何故、こんな事で怒るのだろう?とか。

全く理解し得ない行動をする人が時々いる。

それに対して、どう考えたら?とか、何を考えているのだろう?とか、あれこれ考えて理解しようとしたが・・・

理解できない場合が多い。

その理由が1つわかった気がする。

 

向こうは向こうで自分が正しいと思っているのである。

そういう風に脳内が活動しているのだ。

当人は錯誤を蒸発させて正しいと思い込んでいるのである。

もし、客観的に第三者が見て正しいと思えない場合でも、脳内で変換する事なんざ、お手のものなのである。

だって、音がしなくても、神経活動は起こりうるのだから。

 

神経活動は個人の完結した世界の中では嘘をつかない。 

自分が正しいと思う事の危うさをまざまざと思い知らされる。

ただ、そういうものだと思えば、自分の正当性に基づいた怒りは存在し得ない事になる。

どっちもどっちと思えば、気も楽になるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たんぱく質とDNAの関係

たんぱく質は英語でプロテインである。

 

"ボディビルダーが飲んでいるヤツね。"とか。

"お肉に多く含まれている栄養素ですよね。"・・・

程度のイメージであろうか。

 

"俺、プロテインなくっちゃ生きていけないっす。"

と発言したら、筋肉バカだと思われます。

 

ただ、先に言うと。

生命はたんぱく質なしでは生きていけない。

人体で水分を除く固形分のうち60%以上がたんぱく質なのである。

筋肉、髪の毛、臓器等、重要な部分はたんぱく質でできている。

 

たんぱく質と言われると。

"マッチョがこよなく愛する栄養素だろ?なんか名前もダセェな。"程度の認識であったが、ガラリと見方が変わる。

 

物事に対する見方が変わる本は良書だと思う。

 

たんぱく質入門」

武村政春

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本書は中高生向け。

(教科書じゃ飽きたらない人用の)

文系が興味を持った程度の人に調度良い構成になっている。

武村政春さんは「ウイルス入門」たる本も書いており、スタンスは全く同じ。

こういう人の本は全部読んでみたくなる。

 

人体の重要な部分を担うたんぱく質

そもそも、どうやって作られるのか?

 

たんぱく質とは、アミノ酸が結合したものである。

(※じゃあ、アミノ酸って何だ?との疑問はさておく。)

 

アミノ酸は20種類あり、様々な組み合わせによりたんぱく質ができる。

筋肉、髪の毛、臓器・・・。 

一見、違うものに思えるが、全てたんぱく質である。

要するに、アミノ酸の組み合わせによりけりとの事。

 

材料が同じでも違うものができる。

同じ木が机になったり、椅子になるのと同じである。

アミノ酸は20種類あり、組み合わせによりいかようにもたんぱく質は形成される。

種類は数千万に及ぶそうである。

 

では、その20種類あるアミノ酸の組み合わせを決めているのか?というと。

 

人体の中に設計図がある。

アミノ酸をどう組み合わせて、どんなたんぱく質を形成するかを決めているものがある。

それは何か?・・・

DNAである。

たんぱく質の設計図はDNAなのである。

 

今まで、DNAと言われると、犯罪捜査で使われるもの、程度の認識であった。

具体的に役割を言うと、たんぱく質の形成に重要な役割を果たしている。

 

"材料:アミノ酸+設計図:DNA→結果:たんぱく質"ができる。

 

この時点で。

たんぱく質がいかに大切なものかお分かりであろうか?

DNAは所詮、設計図。

実際に出来上がっているものは"たんぱく質"なのである。

 

家で例えると。

・建築の設計図(DNA)

・材料(木材)

・家そのもの(たんぱく質)

結局、大事なのは、家そのものだと思うわけである。

 

別に、文句を言うわけではないが。

他の名前なかったのかな?たんぱく質、と思ったりもする。 

名前に引きずられて重要性が薄れているものって、時々ある。

 

たんぱく質についておもしろき、と思った事。

たんぱく質アミノ酸からできている。

・我々は基本的にたんぱく質(肉など)を摂取する。

・食べたたんぱく質をそのまま活用はしない。

たんぱく質アミノ酸に分解(消化活動)して、再度、DNAの設計図を基にたんぱく質を作り上げる。

 

牛肉を食べても牛にならないのはそういうわけである。

 

牛肉だったたんぱく質アミノ酸に分解されてから、再度、我々のDNA(設計図)の基にたんぱく質となる。

だから、自分の髪の毛は元々、牛肉だったかもしれない、のである。

 

たんぱく質アミノ酸に分解され、またたんぱく質となり・・・

そして、またどこかでアミノ酸に分解される、なんて事を繰り返している。

 

生命って不思議ですね。

こういう本を読んでいると、輪廻転生は本質を捉えていると思う。

 

"動的平衡"について思ったこと。

生命の定義に"動的平衡"の状態を挙げる考え方がある。

 

動的平衡とは?

・生命は細胞レベルで絶えず入れ替わっているものである、と定義する考え方である。

 

家をイメージして欲しい。

立派な一軒家が立っているとしよう。

その家は一度建てられたら基本的にはそのままである。

朽ち果てる時まで同じ物質として存在し続ける。

 

だが、生命は違う。

たしかに朽ち果てるまで同じ物質であり続けているようにみえる。

あたかも同じ物質の集合体として継続して生きているように思える。

・・・

違うのである。

物質レベルでは常に入れ替わっているのだ。

 

家で言うならば、"建てて壊して→建てて壊して"を繰り返しているようなものだ。

 

通常、家であれば朽ち果てるまでに結構な歲月がかかる。

生物は違う。

食物をそのまま食卓に置いておけば、一週間もせずに腐ってしまう。

生命活動を失った生物が腐っていくのは、まさに朽ち果てていく結果なのである。

そうならないために、 めまぐるしく次から次へと細胞を入れ替えているのである。

 

朽ち果てる前に壊して直してしまえ、との考え方である。

そうでもしなければ、平衡状態を保つ事ができない。

 

簡単に言えば、生命は動いていないと平衡状態を保てない、のである。

一見、動いていないように見えるかも知れないが、そうではない。

動いていない(入れ替わっていない)ものには朽ち果てる運命しか待ち受けていないのである。

(物理学的にいうと、エントロピー増大の法則という。)

 

参照に過去の記事を2つ。

 

anfield17.hatenablog.com

 

 

anfield17.hatenablog.com

 

 

この動的平衡の考え方を知った時にふと思った。

 

同じでいるって事は大変な事なのである。

変わらないでいる事も努力の結果なのである。

 

マンネリ化、とよく言うけれど。

ずっと同じ枠組みの中にいると、どうしても伸び悩む時期がくる。

果たして、自分はこのままで良いのだろうか?と悩むことも多い。

 

だけど、状況が変わっていない事も前進した結果なのである、と納得してみる。

動いていなければ朽ち果てていたのだよ、と。

そう思うと、少し、安心する自分がいる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウイルスに関する考察。

ウイルスに関する考察。

何冊か読んだ本により思うところあり。

 

前回もブログで触れたのだが。

ウイルスは哺乳類の進化にとって必要であった。

anfield17.hatenablog.com

 

※読むのが面倒くさい人もいると思うのでまとめると。

哺乳類はウイルスの遺伝子を取り込む事で胎盤(母体と胎児を連絡する器官)を得たそうである。

胎盤とはなんぞやとピンとこない人のために引用。

 

たいばん【胎盤

子宮の内壁にできる円板状の器官で、臍の緒(へそのお)で母体と赤ちゃんをつなぎます。

妊娠5週ごろから作られ始め、13週ごろ完成します。臍の緒を通じ、母体から赤ちゃんへ酸素や栄養を渡し、老廃物や二酸化炭素を母体へ送り返すなど、大切な役目を担います。

通常は子宮の上のほうにあります。この働きが落ちてしまうことを、胎盤機能不全と呼びます。

 

コトバンクから引用。 

赤ちゃんを産む上で、重要なんだろうな、と思っていただければ幸いである。

 

ここでいう"進化にとって必要であった"とは、たまたま結果的にそうなっただけであろう。

つまり、哺乳類とウイルスが共同タッグを組んで、"よっしゃ、共同開発だ!"と進化しようとしたわけではない。

たまたまウイルスに感染した哺乳類の祖先が突然変異によって生物学的に優位な手段を手に入れたのにすぎない。

 

物騒な例えで申し訳ないが。

カッなって人を殺そうとした人は・・・

・手に鈍器を持っていれば、鈍器で殺すし。

・包丁が近くにあれば、包丁で殺すし。

・車に乗っていれば、轢き殺す。

要するに、手段が重要ではないって事。

 

同じように。

たまたまウイルスであっただけであり。

胎盤を手に入れる手段がウイルスでなくてはならなかったとの事はないと思う。

 

言ってしまえば。

"ウイルスと哺乳類が共存しなかった世界"は存在しないのである。

よって、哺乳類はウイルスがなければ胎盤を取得できなかったか?と言われると、"わからん"との回答になってしまう。

もしかすると、ウイルスが存在しなければ違う手段で胎盤を取得したかもしれない。

もしくは、違う機能を持っていた可能性だってある。

 

そう、何故、そんな事を考えたか?というと。

"哺乳類はウイルスによって胎盤を得たから、ウイルスだって必要なのさ!"との短絡的な考えに疑問を感じたからである。

この考え方は、"ウイルスは人間を害するから、すべて殲滅してしまえ!"との感覚に、実は似ている気がする。

言っている事はウイルス"擁護"・"排斥"で全く逆なのだが・・・

根本的に、短絡的である事が同じなのだろうなぁ。

 

1980年5月に世界根絶宣言をされた天然痘ウイルス。

例えば、この天然痘ウイルスが人類の進化において重要な役割を果たすかもしれない・・・。と僕が言ったとして、誰も否定できないのである。

天然痘ウイルスが突然変異して人類に取り込まれ、最強の免疫を手に入れました、みたいなね。

だからと言って、"500年後の人類のために天然痘ウイルスを蘇らせろ!!"等と主張したら、ただのバカだと思われる。

 

そこらへんの事を考え込んでいると、結局、"なるようにしかならない"としかいいようがない。

ウイルスにやられた時も、"0.00000000000000000001%の可能性で、ウイルスが突然変異して最強の進化を遂げるかも"と思えば、少し気も楽になるかもしれない、と思った。

 

 

哺乳類が進化する過程で必要となったもの。それは・・・"ウイルス!?"「新しいウイルス入門」

今回の話題は、ウイルスです。

う・い・る・す。

(響きがういーっすに似てるな。とくだらない事を考えた。)

 

世の中から消え去って欲しいものランキングを考えた時。

ゴキブリとウイルスはトップ10には入ると思っている。

(ゴキブリは実害は少ないけどね。)

 

誰しも、風邪で体調を崩した事はあるだろう。

そんな時、"なぜ私がこんなにも苦しまなければならないの!!!"

シェイクスピア風に独白した後。

"ウイルスなんて死滅すればいいのに!!!呪われて地獄に堕ちてしまえ"と心から思った事があるに違いない。

 

過去に猛威をふるった天然痘は1980年5月に世界根絶宣言をされている。

そうそう、その調子で、インフルエンザウイルスもノロウイルスも殲滅してしまってくれ。

苦しみたくないのですよ。私たちは。

ウイルスがなくなれば、みんな幸せハッピーライフである。

と、思っていたのだが。

 

一転。

本書を読むと、ウイルスのイメージがガラリと変わる。

今までの流れに完全同意であった方。

ウイルスはそんな単純なものじゃねぇですよ。

 

「新しいウイルス入門」

武村政春

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そもそも、ウイルスとは何ぞや?

との話になるのだが。

 

まず、生物か無生物か?で意見が分かれる 

この点は、ウイルスがDNAを持っていて増殖する事が主だった根拠であると言っていい。

同じような話題は過去のブログでも触れた。

 

anfield17.hatenablog.com

 

今思うと、生物か?無生物か?等と白黒つけようとするからいけないのではないか?そもそも、必ず、生物 or 無生物の二択になるとは限らないのだから。

 

僕自身は、ウイルスと細菌の違いも知らなかったぐらいなので。

第一に"ウイルスはDNAを持っていて生物と考えてもおかしくないっす。”との考え方自体に驚きである。

 

深く考えた事はないのだけど。

"俺、生物とか絶対殺さねぇようにしてるんすよ、博愛主義なんで。"

とか言っている奴は、ウイルスも殺さないのだろうか?

 

いやいや、自動的に殺戮が始まりますよ。

人の免疫は意識しなくても、自動的に自分を守ろうとしますので。

さあ、この事実をどう考える?等と、ヘンテコな議論をしたくもなる。

 

もう一つ、驚くべき事が書いてある。

哺乳類が進化の過程でウイルスを取り込んでいる。

具体的に言うと、ウイルス遺伝子が組み込まれた結果、哺乳類は"胎盤"を取得したのである。

詳しい話は本書をご参照いただくとして。

重要な点は・・・。

哺乳類が進化する過程にウイルスが必要であった、との事実である。

 

これは、ウイルスがなければ、現在の私たちも存在しなかった可能性を示唆している。

もちろん、違うもので代用したかもしれない。

意図的にウイルスを取り込んで利用したわけでもないと思う。

たまたまウイルスに感染した個体が進化への道筋となったのであろう。

だが、結果として現在の私たちがウイルスを進化の過程で必要としたのは事実である。

 

ただの悪役としか思えていなかったウイルス。

その見方が一変する。

ダースベーダーが元々はジェダイの騎士でした的な?

・ショッカーが実は元々は仮面ライダーでしたみたいな?(こっちは事実か知らない。)

 

とにかく、ウイルスって不思議ですよ。

ちなみに本書の副題は"単なる病原体でなく、生物進化の立役者?"である。

どういう意味かは読めばわかります。

 

ウイルスについてはまたそのうち書きたい。

 

 

 

人間関係は自分が正しいと思い込まない事が肝要。「自分の小さな箱から脱出する方法」

人間関係のない人生なんてクソ食らえだ。

味のしない料理みたいなものである。

人間関係がなければ、人生は面白みもない。

 

「人生なんて、人間関係がどうなるかでしょ」

と飲み屋で彼女が呟いた。

って小説の一場面でありそうですよね。

 

やっぱり、人と人とのつながりは大切な事だと思う。

 

だが、人間関係が多大なるストレスをもたらす要因の一つある事は疑いようもない。

うまくいけばとても良いものだけど、下手すると地獄絵図になります。

さーてなんだ?

・・・

「はい!結婚!」

 

結婚は人間関係の結晶みたいなものである。

縛られる分、リスクが大きいのだろうな。

 

僕自身も人間関係によって悩ませられる事は多い。

小学校・中学校・高校・大学・会社。

あらゆるステージで人間関係に苦悩してきた。

(そして、今もなお、苦しめられる事多い。)

 

結構、厄介なんですよ、人間関係ってのが。

僕自身は「いやいや、人間関係なんて必要ないっす。自分の力で生きていきますわ」と、仙人的な発想を抱いて成長してきたのだが。

 

・高校生の頃に、サトッタ。

「いやいや、人間関係なくして人生は成立しないっしょ・・・」

 

コミュニティーの中には必ず人間がいる。

人間がいれば関係ができる。

関係ができればそこに感情が生まれる。

様々な感情に折り合いをつけながら人々は暮らしている。

いや、正確に言うと。

どうにかして折り合いをつけようと努力している。

 

人間関係には、"いい加減にしろや(怒)"と思う事があるからである。

思った事を・・・

①口に出すと、喧嘩になり。

②口に出さないと、ストレスになる。

・・・

②ストレスにより→①口に出したくなる。

・口に出さない事でストレスになる。

負の連鎖。

・・・

ろくなもんじゃねぇぇぇ!!!と長渕剛だったら言うだろうなぁ。

 

そんな人間関係に困った時に読む本を紹介する。

 

「自分の小さな箱から脱出する方法」

アービンジャー・インスティチュート

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この手の本は多く出版されている。

(それだけみんな人間関係に困っているのでしょうね。)

読んでみて、なるほど!と思ったので紹介する。

 

この類の本は実践する事に意義があると思う。

本の中身を理解するよりも、本の一行を実践し続ける事の方が重要である。

 

人間関係は、"自分が正しい"と思い込む事によって破綻する。

→ズバリ、これが真理に近いものあり。

自分たちが正しいと思っているから争いごとは起きるのである。

大抵の争いごとはこの法則に当てはまっている。

本書は、自分が正しいと思い込んだ状態の事を"箱に入った状態"と説明する。

 

実践あるのみ。

僕は読後、怒りを感じた時、

"自分がいつも正しいとは限りません"

と自分に言い聞かせるようにしている。

加えて、深呼吸をすると、ある程度の怒りは収まる。

 

もし嘘だと思うなら、是非、世の中を観察見て欲しい。

・怒っている人は自分が正しいと思っている。

・紛争は自分が正しいと思い込んでいる者同士の対決である。

 

・・・

ならば、自分は正しくないかも?と思えば、怒りと争いから解放される。

 

この本を読んで、生きるのが少々楽になった。感謝感謝。