禅・ZEN・ぜん
禅について学ぼうと思った。
理由は特にない。
あえて言えば、禅・ZEN・ぜん・・・響きが良いから。
もしくは、禅ってカッコイイ気がしたから。
最もまともな理由で・・・
外国人の皆々様がそんなにありがたがる禅とやらを日本人である僕が説明できない事に対して、情けなさを感じたからである。
(ジョブスが禅を好んだそうですね?じゃあ、僕も学んでみましょう。)
まぁ、つまりは、全体的に不純な動機なのである。
僕が学ぼうとする理由なんて、高尚なものである事が少ない。
安直に、辞書で調べたら禅についてわかるかと思ったが(わかるはずない)。
やはり、"座禅をして精神を統一し、真理を悟る"のような薄い事が書いてある。
よく一文にまとめたものだと、感心こそすれ、理解はできない。
そんなわけで、禅について学び始める事にした。
注意して欲しいのは、これは僕自身が禅について知ろうとする不断なる努力の記録である。
そして、僕は禅に対して何も知らない。
現時点では、正しいか?正しくないか?よりも、僕自身が禅について何を考えたか?を記録する事が重要であると思っている。
そんなわけで、まずは一冊本を読もう、と思い手に取った。
「禅語遊心」玄侑宗久
読み終わって、まず、勘違いが余りに多かった事に気付いた。
まず、僕は、"禅"を哲学のようなものと同じように考えていた。めくるめく思考の迷路。答えを出す事よりも、答えのない過程を楽しもうとする営みであろうかと思っていた。
だが、実際に"禅"はそうではない。
禅とは、実践するものである。
もっと言えば、実践する事すら忘れて、常にそうあるものである。
そして、禅の目的とは。
"生きる事を楽にする。"
・・・これに尽きる。
こうも言える?
"生のない所に禅は存在しない。"
※この辺りは、死と隣り合わせにあった日本仏教との根本的な違いであろうか。
また、禅とは、外側に何かを求めようとするものではないとする。
内側にあるものに目を向けるのが禅なのである、と。
こうなってしまうと、もはや一般的な宗教のカテゴリーから外すべきなのでは?とも思ってしまうが、どうなのだろう。
なお、「禅語遊心」は1月〜12月に渡って、いわゆる禅語を紹介する形で構成されている。
個人的に気に入った所を抜き出すと、
・6月
"竹密にして流水の過ぐるを妨げず"
どれだけ、竹が密接に生えても、流れる水が過ぎるのは妨げない、と。
これを心の問題に例えて、流れる水を世の中ので出来事と解釈する。
そうすると、どれだけ色々な事があっても、水が竹の横を流れていくかのようなものである、と。
決して、水が止まって滞留して腐っていくような事はない。
禅とは、今、この瞬間を重視する。
昨日、嫌な事があったとしても、今日は今日でしかない、と考えるのが禅である。
つまりは、そういう風に考えたら生きるのが楽になりませんか?との教えに近い。
生きていると、結構辛い事も多い。
そんな時に道標になってくれるのが禅であるようだ。
もう少し、色々と学んでみようと思っている。