一つの場所に集合している姿を想像して欲しい。
おそらく、
異様な光景であると感じるに違いない。
ライオンでも、ネズミでも・・・
哺乳類が、10,000を超えて集合するのは、通常では起こりえない。
奇異な事であると思える。
ただ、人類の場合、そうではない。
天安門事件のような政治的事件、
乃木坂46のライブでも、
Jリーグのサッカーであっても、
なんでも良い。
コロナウイルスが流行する中でも、
おそらく日本中のどこかで1,000人程度であれば毎日ぐらいの頻度で集まっているであろう。
根源に何があるのか?
それは、
人々が、
”実在しないものについて語れる事により虚構を生み出せるから”
だという。
参考文献は「サピエンス全史」
本書の中で、
人類が優れているのは、
実在しないものについても語り共有できる事であるとする。
そして、
その能力こそが、人々に神話を与えたのであると。
神話なくして、
1,000人を超える人々はつながらない。
虚構が人々を接着している、
と本書は主張する。
どういうことか、と考えを巡らすと、
なかなか興味深い観点で世の中の枠組みが揺さぶられた。
例えば、
日本は法治国家である。
日本国が定める法律に反した場合、相応の罰を受ける。
だが、法治国家である証明を、
自分の目で見た事のある人がどれだけいるであろうか?
というのも、
法治国家の証明とは、非常に難しいからである。
法治国家とは、
まず、法の元に誰もが平等に裁かれなければならない。
ただ、実際そうなっているのか、を私は自分の目で確かめた事はない。
無論、法の元に裁かれているニュースは耳にした事がある。
だが、
同じ法律違反をした人間が全く同じように裁かれているとの証明は、
ついぞ目にした事がない。
おそらく、裁きの量刑にはばらつきがある。
極端な話、
犯罪者ながら裁きを受けていない人も、
冤罪での裁きを受けた人もいる。
・・・
これは、
司法も人が運用しているものである、との一事に帰結する。
つまり、人がやっている以上、
判断にはバラツキがある。
完璧な法治国家とは、おそらくあり得ない。
(SFでの近未来的世界でなくては)
また、財力のある者は優秀な弁護士を雇える。
お金の力で、悪人が罪を逃れてのさばっている、とまでは言わないが、
財力により罪を軽くする力を持つ事ができるのだと思う。
(そうではないと、腕利きの弁護士が高い報酬を受け取る理由がない)
法治に対して、お金による抵抗力が強すぎるように思える。
そう考えると、
法治国家とは、一種の虚構である、と思う。
法治国家が虚構ではなくても、
公平で厳密に機能する法治国家は虚構である。
これは、
日本の司法に対する批判ではなく、
人が運営する法治国家とは、
最終的にその段階にしか行き着かないのではないか。
そんなことすらも、考えてしまう。
法治国家の理想型を追いかける途上なのである。
法治国家への叛逆は、
もちろん、法律に縛られない事である。
我々が法律を遵守するのは、
法治国家が法律違反をする者を罰する、と考えているからである。
そこが揺らいだ時、
法治国家は崩壊する。
さて、話を戻す。
人間は、実在しないものを語り共有して、神話とする事ができる。
その能力により、
通常では考えられないような集団行動ができるのである、と。
おそらく法治国家の名の下に、
法の下の平等を信じて、法律を遵守する事もまた神話に支えられている事なのであろう。