のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

恋愛中毒 山本文緒

捻じ曲がった主観。

そんな言葉が思い浮かんだ。

人が恋愛をしている時、

ほぼ間違いなく(人生の中でも最も強力な)主観の呪縛に囚われる。

それは、

恋愛に、

落ちるなのか、

堕ちるなのか、

陥ちるなのか。

ただ一つ言えるのは、

主観が客観を支配しない限り、理解できぬ行動を人はとる。

それを中毒と表現するのならば、

たしかにそうなのかもしれない、と思う。

 

「恋愛中毒」

山本文緒

 

あらすじを引用。

もう神様にお願いするのはやめよう。

―どうか、どうか、私。

これから先の人生、他人を愛しすぎないように。

他人を愛するぐらいなら、自分自身を愛するように。

哀しい祈りを貫きとおそうとする水無月

彼女の堅く閉ざされた心に、小説家創路は強引に踏み込んできた。

人を愛することがなければこれほど苦しむ事もなかったのに。

世界の一部にすぎないはずの恋が私のすべてをしばりつけるのはどうしてなんだろう。

吉川英治文学新人賞を受賞した恋愛小説の最高傑作。

本作を読んで、

主人公に共感できなかったとの感想を持つ人は多い気もする。

ただ、それはある種のつよがり的な部分もある気がして。

人が恋愛の渦中にいる時は、

案外、これくらい周りが見えなくなっているものであると思うし、

狭窄的視野で隘路を暗闇の中で、

目を瞑って進むようなものである。

だから故に、

人は終わった恋を思い出して、なんであんな事を世界の終わりのように考えていたのか。

と思うのだけれど。

 

角田光代さんの著作を読んでいても思うのだけれど、

女流作家が紡ぐ恋愛に関する言葉は心の芯を食う時がある。

読んでいて心地いい本ではなかったけれど、

記憶に残る本であった。

 

愛しているから期待するのか

愛しているからこそ期待しないのか

どちらも正しいことのように思えたし

どちらも間違っているようにも思えた

 

思わず、線を引いた。

言い得て妙。

さがしもの 角田光代

何かを喪った時、

それは瞬間的に貴方を追い込むものではない。

じわじわと真綿で首を絞められるかのように、

段々と心を削り取っていくものである。

削り取られたものに気づく時、

既に喪われたものは手の届かない世界に息づいている。

その大きさは喪ってから初めて知るものである。

 

人が人に恋をして、

その恋が終わる瞬間は突然に訪れる。

だけど、終わった事を認識する瞬間は、

ふとした心の間隙を縫う意図しない侵食である。

目を離した隙に溢れてしまったお風呂の水のように、

心に溢れ出た感情は抑えられる事がない。

 

さがしもの

角田光代

 

その中の一編。

”彼と私の本棚”

を読んだ時にそんな事を思った。

 

僕自身が、

ふと思った時について語るならば、

昔の恋人の好きだった料理とか、

そんなものに意図せず触れた時、

感情的に押し殺していた、喪ったものへの哀愁を感じる。

それは後悔とか、過去に戻りたいとか、といった感情ではないのだけれど、

一瞬でも愛した者への寄り添いたい気持ちが、確かに存在する。

 

”彼と私の本棚”

は恋人が別れた話である。

その恋人と別れる作業の途中で、

本棚をめぐって回想をする話なのだけれど。

僕は、この主人公が回想をするきっかけに対してたまらなく感情移入をしてしまった。

 

角田光代さんが紡ぐ言葉は、心に寄り添う。

クイックアンドダーティー

クイックアンドダーティー

多少粗くても素早く。

・・・

なるほど、これは自分に欠けている資質である。

もはや使い古された感もあるが、

僕は、

・石橋を叩いて壊すタイプ

・勝って兜の緒を締めて頭痛がするタイプ

である。

 

もちろん、

石橋である事を確認した上で渡った方が良いし、

勝っても次の闘いに備えて兜の緒を締めるのは良い事である。

ただ、そこにスピード感がないのであれば、効果的ではない。

 

まずはトライしてみる事。

答えはそうならないと見つからない。

 

上司の意向を伺う上で思うのは、

練りに練っても、

どうせ否定される事が多い。

そうなると、まずどっちの方向性か、練りきっていない状態で聞いた方が話が早い。

簡単なことではないのだけれど。

顔馴染みの本屋

顔馴染みの本屋さんがある。

最寄駅の近くのこじんまりとした本屋だ。

商売は成立しているのだろうか?と不安になる時もあり、

二週間に一回程度、足を運んでいるうちに、店長さんが話しかけてくれるようになった。

 

大抵の場合、

「こんなのも読むんですね」

とか、

「これが好きだったら、これもいいかもしれません」

といった、わかりやすいありきたりな書店員と客の会話をするのだけれど、

この前行った時、なかなかエキサイティングな発言をいただいた。

 

僕が、とある小説家の本を買ったのだけれど、

店長さんが、レジでじっと本を見つめながら、

「この人の本って、こんな事言っちゃあれですけど、面白い時はめちゃめちゃ面白いのに、つまらないときはめちゃめちゃつまらないですよね。」

今まさに、とある小説家の本を買おうとしている僕に対してである。

・・・

”めちゃめちゃつまらないですよね!”

売り物を卑下する店員って、あんまりいないな、とその時、思ったのだけれど。

僕自身も、そのとある作家さんに対して、めちゃくちゃつまらない作品があるイメージだったので、

「そうなんですよね笑」

と反応していた。

・・・

共感はプラスの側面であっても、マイナスの側面であっても、

仲間意識を生むのである。

・あのアイドルが可愛い

・あのアイドルがムカつく

との話題は、共感さえ土台にあればどちらにせよ話題としては盛り上がる。

 

二人で映画を観に行ったとして、

大事なのは、映画が面白かったか?よりも、

二人の映画に対する意見が一致する事なのではないだろうか。

そんなことすら思ってしまう。

 

僕自身、誰かと映画を観に行った時に、

一番気にしてしまうのは、一緒に行った相手が映画についてどう思ったか?

なのである。

そういう意味では、

独りで映画に行った方が純粋に楽しめるのだけれど。

 

話は少々脱線したが、

店長さんがとある作家に対して放ったコメントは、

僕の中ではしっくりくるものがあって。

プラスの側にも、マイナスの側にも、語れる土台を持った時に、

その空間は心地良いものになるのだと思う。

 

ちなみに、その時買った本は、めちゃめちゃつまらない側の作品であったが、

その事を店長に告げるほどの勇気はまだ持ち合わせていない。

 

 

戦術家と戦略家

戦術のない戦略では、

勝利への道のりは遠い。

戦略のない戦術は、

敗北前の騒音である。

 

仕事をしている上で、

戦術と戦略の両方をきちんと理解している人をあまり見たことがない。

(弊社のレベルの問題なのかもしれないけど。)

僕が個人的に思う、後輩に対して一番教えたい事は、

戦術と戦略の違いであると思う。

 

過去にも触れたことがあるかもしれないが、

戦略とは、

森を切り開くとして、

どちらの方角に切り開いていくか?である。

 

森を切り開くとは、

例えば、好戦的な敵国への道を切り開く事になるかもしれないし。

はたまた、貿易国への道になるかもしれず。

切り開く方角を間違えれば、

身を滅ぼす事にもなりうる。

それが戦略である。

 

一方、戦術とは、

いかに効率的に木を伐採するか?

である。

純粋の戦術家は、森を伐採して結果どうなろうと知ったこっちゃない。

目の前の木を次々と伐採する事に照準を定める。

 

理想は戦略家に優れた戦術家をつける事なのだけれど。

実際、優れた戦略家は稀有な存在である。

ただし、優れた戦術家は多く存在すると思う。

 

故に、

常に戦略を意識する事、がまず第一で。

あなたが求められている戦略が何であるか、淀みなく言えないとするならば。

切るべき木を間違えている可能性があるのである。

 

最初はフリでいいよ。とりあえず笑っておこう。

最初はフリでいいよ。

とりあえず笑っておこう。

 

いい言葉だと思う。

楽しいから笑顔になるのではなく

笑うから楽しいのだ。

 

正論だと思うが、

なかなか難しい。

 

ただ、実践できるなら、それほど幸せな事はない。

幸せはアンダーコントロールである。

とりあえず笑っておこう?

 

確かにそれは、明日から出来ることである。

人は測定されるものにしか興味を持たない。

ビジネス書を読んでいると、

大抵の場合、特定の人の顔が思い浮かぶ。

残念な事に、悪い意味で。

悪い例でしか思い出さない人しか周りにいないので、

最近は結構、不遇の日々を過ごしているのかもしれない。

 

人は測定されるものにしか興味を持たない。

ビジネス書にて、提示された指摘。

至極、その通りだと思う。

 

人を数字で管理をする上で、よく考えるのが、

健康診断の話である。

 

健康診断とは、

健康であるために異常兆候を見つけるためのもの。

戦術と戦略の話で言うならば、

・戦略=長生きをする

・戦術=健康診断

との位置づけ。

 

健康であるためには、肥満は大きな敵である。

そのため、体重を測定する。

ただ、体重の測定とは、

身体の重さ、だけの話であり、

・筋肉質で重いのか

・脂肪で重いのか

かがわからない。

 

だから、体脂肪率のような尺度で測定するのである。

そうすれば、筋肉質の重さなのか、がジャッジできる。

 

測定できる、とは強い。

測定できなければ、管理できているとは言えない。

 

 

網の目のように、測定魔になるのもバカな管理者なのだろうが、

測定に意味を見出さない管理者もまたバカである。

 

アホな管理者ほど、自分が測定できていると信じ込む。

アホな担当者は自分の事を自己測定しない。

どっちもどっちなのだけれど。