捻じ曲がった主観。
そんな言葉が思い浮かんだ。
人が恋愛をしている時、
ほぼ間違いなく(人生の中でも最も強力な)主観の呪縛に囚われる。
それは、
恋愛に、
落ちるなのか、
堕ちるなのか、
陥ちるなのか。
ただ一つ言えるのは、
主観が客観を支配しない限り、理解できぬ行動を人はとる。
それを中毒と表現するのならば、
たしかにそうなのかもしれない、と思う。
「恋愛中毒」
あらすじを引用。
もう神様にお願いするのはやめよう。
―どうか、どうか、私。
これから先の人生、他人を愛しすぎないように。
他人を愛するぐらいなら、自分自身を愛するように。
哀しい祈りを貫きとおそうとする水無月。
彼女の堅く閉ざされた心に、小説家創路は強引に踏み込んできた。
人を愛することがなければこれほど苦しむ事もなかったのに。
世界の一部にすぎないはずの恋が私のすべてをしばりつけるのはどうしてなんだろう。
吉川英治文学新人賞を受賞した恋愛小説の最高傑作。
本作を読んで、
主人公に共感できなかったとの感想を持つ人は多い気もする。
ただ、それはある種のつよがり的な部分もある気がして。
人が恋愛の渦中にいる時は、
案外、これくらい周りが見えなくなっているものであると思うし、
狭窄的視野で隘路を暗闇の中で、
目を瞑って進むようなものである。
だから故に、
人は終わった恋を思い出して、なんであんな事を世界の終わりのように考えていたのか。
と思うのだけれど。
角田光代さんの著作を読んでいても思うのだけれど、
女流作家が紡ぐ恋愛に関する言葉は心の芯を食う時がある。
読んでいて心地いい本ではなかったけれど、
記憶に残る本であった。
愛しているから期待するのか
愛しているからこそ期待しないのか
どちらも正しいことのように思えたし
どちらも間違っているようにも思えた
思わず、線を引いた。
言い得て妙。