「アメリカンスナイパー」
アメリカンスナイパー。映画館にて。
何となしの違和感。
観終わった後、思考停止気味。
「何を伝えたかったのか?」
「もしくは、何を感じるべきなのか?」
・・・・
これは戦争の映画である。
違和感がなんであったか?
いまいち不明瞭なままに日常生活に戻る。
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そんな中、沢木耕太郎さんの 銀の街からを読み、ピンときた。
一文だけ引用する。
「だが、戦争は楽しい。」
・・・ああ。そういう事か。
(見終わった後、是非、全文読んでみてほしい。)
これは戦争の映画である。
ただし、戦争を一人の男の目線で描いた物語である。
アメリカンスナイパーとは、イラク戦争に従軍し、スナイパーとして160人以上の敵を殺し、多くのアメリカ兵を救った男。
男には確固たる"正義"がある。
9.11の事件に衝撃を受けるシーン。
祖国を守らねば、と意気込むシーン。
仲間のアメリカ兵を助けようとする。
自分の命を捨てても、どんなものを犠牲にしても・・・。
誤解を恐れる事なく言えば・・・
アメリカ的愛国心は美しいのだ。
そして、 この映画は戦争の映画である。
と、同時に、個人の正義が語られる映画である。
僕は、個人の正義に同調した。
ここに、違和感が生じたのだと思う。
僕は、戦争をそもそも否定する立場にいる。
だけど、戦争の先にぶら下がっているもの、個人としての戦争に同調した。
正確に言えば、戦争によって生じた仲間意識、もしくは、結束感のようなものに心打たれるものがあったのである。
こう考える。
個人の正義が集合した結果は必ずしも正義にはなり得ない。
また、大義があるとは限らない。
だけど、個人の正義は間違いなく存在している。
そして、正義は否定する事はおろか、(どちらかといえば)同調している自分に気づく。
僕が胸を打たれた"個人なる正義"。
甘美で陶酔するような、英雄的な人生。
同調する事への危うさを違和感としか感じ得なかった自分。
観るべき映画。
決して"劇的なもの"ではなかった。
思っていたようなものでもなかった。
だけど、強烈な揺らぎが僕の中に残っている。