"手段"と"目的"について
■”手段”と”目的”を履き違えるといつだって厄介な事になる。
仕事においても、勉強においても、プライベートにおいてもね。
iPhoneが発売される度に思う。
僕にとってiPhoneは"手段"でしかない。
電話をしたり、インターネットに接続したり。
iPhoneを待ちわびている人。
徹夜で並ぶような人はiPhoneそのものが"目的"なのだろう。
新しいiPhoneを触っている事に無常の喜びを感じるのであろう。
僕にとっては"手段"でしかないのだから、時間を割くことに違和感を覚える。
ただし、全ては価値観の問題。
僕はiPhoneを目的と考えない人物である…と、ただそれだけの事。
どちらが良い or 悪いの話ではない。
目的として楽しんでいる人を否定するつもりは毛頭ない。
■読書は"目的"であるか?否か?
この点について、色々と考えてきた。
読書が目的であるとは何か?
"読書を楽しんで、読書自体に意味を見出す事"であろう。
つまり、"本を読んでいて満足する"とか、"楽しい気持ちになる"とか…。
ある時期、"目的"としての読書に疑問を感じた。
正確に言うと、"読書をしていても手応えがない"と感じ始めた。
手応えがない、とは、"読み終わった、楽しかった。
だからどうした?"と思うようになったのである。
中学校時代"読書はした方がいい"との漠然とした理念を先生が掲げていた。
読むとどうなるんだ?と尋ねると…
「人間としての深みが増す」…
はぁ???である。
よくわからない。
(今思えば、その発言に深みがない。)
そんなわけで、そもそも読書とは何か?をずっと考えてきた。
気付いたのは…
"目的としての読書"と"手段としての読書"は全く別物であるって事。
"目的"…読書自体に楽しみ、喜びを感じる。
"手段"…読書でインプットした事をアウトプット、アクションにつなげる。
→読書はより良いアウトプット、アクションのための手段である。
そして、加えて言うならば、例の"人間的な深みが増す"ってのは後者の読書を指すと思う。
iPhoneと同様に、読書を目的として…と考える人に対してつべこべ言うつもりはない。
ただ、"読書はいい"との教えについて、一石を投じたいのである。
"手段"と"目的"は似て非なるもの。
一括りに"読書"と定義すべきではないと考える。
混合していると本質を見失う。
趣味は読書ですと言うのは、もう止めよう。