神さまについての本。「神とGOD」
"もう神頼みだな…"
とか。
"神様にお願いする"とか。
年始の初詣とか。
葬式では仏教徒風になり、クリスマスにはキリスト教徒風になるとか。
もっと言えば、仏教においては遺体に意味はない。
そこは儒教的な考えが混合しているとか。
四季折々で忙しいものである。
日本の宗教事情は少々複雑であると思う。
その中で多くの人が”日本人は無宗教だ”と答える。
どう考えても独特な宗教観が蔓延っている。
日本の宗教史は習合がキーワードであると思う。
その結果が現在につながっている。
これは否定すべき事ではなくて、1つの過程であると考える。
原始から姿を変えた事をバカバカしく思う人もいるだろうが…。
日本における宗教史は非常に面白い。
アマテラスは大日如来であるなんて言ってしまう。
日本のカミに"仏にならせてくれ"と言わせてしまう。
日本の宗教史は拡大解釈の連続である。
552年に仏像が百済から届いた時、日本の人々は"外国のカミ様"であると考える。
仏教を少し学べばとんでもない勘違いであると気づく。
なれども、仏像だけパッと見たらそう思うのも当然か…とも思う。
"外国のカミ様"である仏像は丁重に扱わなければ怒ってしまうぞ!
いやいや、そんな事したら日本にいるカミ様が怒ってしまう!
なんて論争が起きたらしい。
違う違う・・・仏像はカミ様ではございませんよ。
基本的には、祟りもないし、ご利益もないし…。
自己完結型のスーパーストイックな求道者です。放っといてあげてください。
なんて教えてあげたくなる。
仏像を初めてみた時、僕は何を思っただろう…?と。
確かに、カミ様だと思ったような気もする。
そうそう。
・仏とカミ様とGODって何が違うの?
はい。
①日本古来のカミ様
②仏様
①②③は全く別物です。
(偏見に満ちた個人的な意見を言わせてもらえば)
いわゆる③のGODを神と翻訳するのは日本史史上に残る誤訳だと思っている。
現在の日本において、①②③は混合して、習合して、曖昧な輪郭線を持って重なってる。
同じものだと、思っている人は多いに違いない。
少なくても僕は①②③の区別がつかなかった。
誤解を生まないように補足すると…
僕個人は①②③を同じものだと考える見方に反対しているわけではない。
むしろ、逆で原始的な所では全く別物であったものが、まるで同じものであるかのうように扱われている事実にゾクゾクする。
個人的な経験から言えば、①②③の違いを読み解いていく作業は、温泉を掘り当てたみたいに知的好奇心が噴き出してくような体験であった。
そんなわけで…
①日本古来のカミ様
②仏様
の違いについて、わかりやすく解説している本を見つけたので紹介する。
是非、読んでみて下さい。
「日本人の神 (河出文庫)」
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309412658/