生物の定義とは何か?「生物と無生物のあいだ」
面白かった。
"生物と無生物のあいだ"には何があるのでしょう?
そもそも違いとは何か?
"あいだ"には薄い紙一枚程度の差しかないのか。
それとも、大きな隔たりがあるのか。
誰しも自分自身は生物だと思っている。
ならば、その定義は?
今、僕が向き合っているパソコンと生物は何が違うのだろうか?
「生物と無生物のあいだ」
一歩一歩、"生物と無生物のあいだ"に近づいていくと、曖昧とした境界線にウイルスがいる。
ウイルスを生物と考えるか?無生物と考えるか?は研究者によって分かれるようである。
条件として。
生物を"自己複製しようとするもの"と定義すると、ウイルスは生物となる。
何故なら、ウイルスのDNAが複製しようとする(遺伝子に刷り込まれているかのように)からである。
ただし、ウイルスは単独で複製をする事ができない。宿主が必要となる。
故にウイルスは人に感染して、病気を引き起こす場合がある。
ウイルスが拡散しようとする営みは自己複製の試み以外の何物でもない。
あらゆる生物は原則的に自己複製(種を残そうとする)の意志を持っている気がする。(※無論、子供のいない人が生物ではないと言っているのではない。)
極論。
すべての人類が子供を産むのを止める日が訪れるか?
永遠に訪れないと思う。
世界中の核爆弾が破裂して人類が滅亡する日は来るかもしれない。
だが、人類が自らの意志で子孫を残す営みをやめる日はこないと思う。
(もしそんなことがあるならば、小説のように静謐な瞬間になる気がする。)
何故か?
生物は子孫を残そうとするものだからである。
選択的絶滅は、どう考えても本能に反している気がする。
(人間は本能に反する事を多くしているが。)
真髄がDNAにあり、ウイルスもその系譜を辿っているとしたら?
ウイルスが生物であるとの考え方も頷ける。
ただし、本書は、生物を"自己複製しようとするもの"とは定義しない。
生物を"動的平衡"との言葉を持って説明する。
動的平衡とは何か?
単純に説明すると。
"入れ替わっている存在でありながら、平衡状態を保っている事。"
(急に分子の話に飛ぶが。)
例えば、目の前にあるパソコンは1年経っても基本的に同じ分子で構成されている。
しかし、私たちは違う。
1年経てば、分子レベルではほとんど入れ替わっている。
つまり、細胞の単位で新しいものになっているというのである。
これを本書では"生命体はたまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい淀みでしかない。"と表現している。
川に水が流れているのをイメージして欲しい。
もし、あなたが川を24時間眺めていたとして、同じ水を見る事があるだろうか?
そんな事はない。
水を一つの単位として見るならば、上流から下流へと流れていく。
過ぎ去った水は戻ってこない。
だが、我々は違う水を見て同じ川として捉える。
これこそ、動的平衡の概念。
そして、我々も同じようなものである、と本書では語る。
自分は確固たる個体として認識している。
誰しもが同じだと思う。
だけど、本書を読むとその考え方も少し揺らぐ。
僕自身は、将来的に全く同じ個体ではありえないのである。
なぜなら、我々は常に流れの中で入れ替わっているから。
本書が評価されるべき点は、非常にわかりやすく、且つ、物語のようで面白い事。
筆者の思いが底流にある点も心地いい。
生物の話に詳しくない人であれば、誰しもが楽しめる本であろう。