人類の遺伝子は5,000年前頃からバリエーション豊かになったそうである。
人類の遺伝子は5,000年前頃からバリエーション豊かになったそうである。
何も考えなければ"そうなんだぁ"で終わる話なのだが。
話は、そう単純ではない。
考えていると、生命のあろうとする姿と人類の倫理的な葛藤に達する。
まず、遺伝子について。
バリエーションとは、遺伝子の複製ミスによって生まれるものである。
遺伝子は、自己複製する事で子孫を残そうとする。
ただ、その過程で、遺伝子が全く同じように複製される確率は100%ではない。
時々、複製ミスが起きる。
イメージとしては、何か文章を書き写す時に、間違えた場合と同じである。
いわゆる、我々が進化と呼ぶ仕組みがここにある。
つまり、複製ミスによる違う遺伝子が"突然変異"を生み出す。
その結果が、我々が進化と呼ぶ"尻尾が生えました"みたいな現象につながるのである。
ポイントは、意図的に遺伝子の操作がされていない点である。
あくまでも、複製ミス(偶然)なのである。
つまり、進化は意図を持って成されるものではない。
遺伝子の複製が意図する一本道でないならば。
当然、バリエーションは豊かになるに決まっている。
言い換えると・・・
遺伝子の複製がランダムにエラー(複製ミス)を起こすのならば。
結果、様々な遺伝子が造られる。
一つの方向に向かっていないのだから当然である。
"この様々な遺伝子が、ランダムに。"が重要なのである。
進化とは必然ではない。
例えば、人類に尻尾が生えたら史上最強の生き物になれるとする。
(そんな事はないのだけど)
すると、尻尾が生えた個体は生き残り、子孫を残していく。
この過程は一見、尻尾が必要であるから、進化したように思える。
だが、実際は異なり。
たまたま遺伝子の複製ミスが起き、尻尾が生えた結果⇒運良く最強の生物になれただけなのである。
この点を見誤ると、進化の本質を見失う。
よって、遺伝子は多様化するのが当然なのである。
ランダムに突然変異が起きるのならば、時が経つにつれて種類は増えていく。
ならば、"人類の遺伝子は5,000年前頃からバリエーション豊かになった"のも当たり前の事じゃないか?と思うだろう。
ただし、更に、話はそう単純ではない。
ポイントは"5,000年前頃"である点だ。
まず、遺伝子はランダムに多様化しようとする。
ただ、その結果、生き残る遺伝子と滅びる遺伝子が生まれる。
子孫を残すのに優位な突然変異と、そうではないものが生まれるのだ。
つまり、淘汰される、のである。
結論を言うと、5,000年前頃から自然淘汰される力が弱まった結果、遺伝子のバリエーションが豊かになっているのである。
もちろん、自然淘汰の力は勝手に弱まったのではない。
弱めたのだ。
具体的に言うと、狩猟から農耕への転換点が5,000年前である。
暮らしが楽になればなるほど、不利な遺伝子を持っている個体が生き延びる可能性は増える。
不利な個体が人工的な保護を受けながら、淘汰を逃れているのである。
ありとあらゆるセーフティーネットが、この自然淘汰を弱める作用を持っている。
人間の倫理的な問題とはここにある。
自然淘汰、と呼ばれるシステムが、遺伝子の取捨選別において合理的なのはわかる。
・劣勢である遺伝子が淘汰され消える。
・優勢である遺伝子は子孫を繁栄させていく。
だけど、自然淘汰の考え方は、人間の感情的に受け入れ難い。
ここに、自然である事が必ずしも、人間的な倫理に当てはまらない一例がある。
バリエーションが増える事により、我々は進化しているのか?退化しているのか?
難しき問題にて。