変身 カフカ
ある朝、不安な夢から目を覚ますと、グレーゴル・ザムザは、自分のベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた。
「変身」
本作は、ある男が朝起きたら虫になっていた。
との一文から始まる世界的に有名な文学作品である。
ある朝、目が覚めたら虫になっている。
との設定は、 現実味のある話ではないのだが、 朝起きた時に虫になっていない保証ってあるんだっけ? と自問自答をした時に、 自分の存在への保証を揺るがす重大な問いとなる。
自分が朝、起きた時、虫に変わっていないと誰が言い切れるのか。
意識がどこかの虫に移ってしまう事が絶対にありえないと、どうして保証できるのか。
カフカの「変身」は、人間の存在を揺らがせる。
意識の所在とは、 確固たる土台を築いているものではないと、改めて思う。
本作は、 小説ではないと達しえない一つの境地にある作品であろう。
虫になった、との設定から、 淡々と虫になった主人公の内面が語られていく物語の進行。
やはり秀逸。
普通、虫になった事に驚きを禁じ得ないはずなのだが、 主人公は、虫になった事を受け入れていくようにすら思える。
僕自身は、本作を大学時代に一度読んでいる。
非常に印象深い小説であった事もあり、 冒頭の部分と結末は明確に記憶が残っていた。
ただ、今、再読してみると、虫になった主人公を、ある日、突然、鬱病になって引きこもりになってしまった人みたいだな・・・
と、重ね合わせて読むようになっていた。
また結末について、 虫になった主人公を、家族がどう扱ったか?
大学時代の僕は、 明確に虫になった主人公の側に立った。
主人公に対する同情、憐憫の念を抱いた。
家族がとった姿勢に対して反発した。 虫になった主人公がかわいそうだと感じた。
10年ほど経った今の僕は、 家族の行動に対して理解を示す事ができた。
下記、少々、結末に触れてしまうが、 なぜ、そのように思ったか? との反芻した時、 人生において棄ててきたものが増えたらではないかと思った。
大学時代の僕は、 今の友達と一生涯、ずっと友達であり続けると思っていた。
付き合っている彼女と結婚する未来を純朴に描いた。
でも、 今はその未来は霧散している。
色々なものを棄てたと思う。
意図して棄てたものもあれば、逆もまた然り。
でも、間違いなく、棄てて前に進んだんだな、と、今は思う。
誰しもが、何かを棄てて、未来を見据える。
その経験が幾重にも重なり、自分でも気づかないうちに心のどこかに沈殿して、 「変身」を読んだ時に感じた事が変わった。
コロナにより、家にいる時間が増えて、 大学時代に読んだ本を再読する日々を過ごしている。
まったくもって使い古された言葉であると思うが、 古典的な名作は読むたびに感想が変わるものである。