映画「それでも夜は明ける」
映画
舞台は1841年のアメリカ。
黒人奴隷制度の話。
まずは、実話である事がテロップで告げられる。
纏わりつくような底深い戦慄。
残酷、残虐。
ただし、恐ろしいのは行為そのものですらなく。
制度が根を張って存在し得た事。
怖いと思った。
人が人を"人として認識しない事"が辿り着く行為を。
そして、日常の中に奴隷制度が溶け込んでいる事が。
主人公のソロモン・ノーサップは自由黒人であり、家族と幸せな人生を暮らしていた。
※自由黒人とは。法律の保護のもと、奴隷の身分から解放され"自由証明書"を持つアフリカ系黒人の事を言うらしい。
だが、ある日、ソロモンは奴隷商人に拉致されて売り飛ばされる。
物語はここから。
ソロモン"奴隷 プラット"と名を変えて、奴隷の人生を歩む事となる。
家族と引き離されて、ニューオーリンズへ売られていき、奴隷として扱われる。
奴隷制度の闇。
この点は今更語るまでもなく。
残酷・非道。
話す家畜として扱われる。
何をしてもいいのだ。何故なら"人ではないのだから"
労働力の価値以外はなにもないのだから。
"人を人として認識しない残酷さ"
奴隷制度の根本的な部分である。
それは、日本人である我々からすると残酷の質が違う感じがする。
(この辺りの感覚の違いは「アーロン収容所」たる本に詳しく書いてある。)
主人公ソロモンは、解放されようともがく。
奴隷が鞭で打たれる・・・。
奴隷が処刑される・・・。
そんな中でも生きる事を選択する。
時に、命令を受け、仲間の黒人奴隷に鞭を打つ。
"殺してくれ"と仲間に懇願される。
けれど、ソロモンは生きる。
彼を支えていたものはなんであったか?
何が彼をそうさせたのか?
アカデミー賞受賞作品。
納得。
演技が秀逸。
鈍い戦慄が心に響く。
印象に残ったシーンが2つある。
一つ・・・
ソロモンが白人に逆らって首吊りとなって殺されそうになった時。
その背景にあった日常的な風景。
奴隷が首吊りによって殺されるシーンと、どこにでもあるような日常のシーンが混じり合った風景。
違和感。
だけど、完結した映画の世界では違和感がない。
(つまり、当時の社会ではそれが普通であったのか・・・)
もう一つ・・・
黒人奴隷を鞭で打った白人がこう言った。
"俺は所有物で遊んでいるんだ"
"これ以上、気の晴れる遊びはない"
と。
日本人の感覚とは違うのは所有物って考え方。
根底には一神教による創造物の解釈があるのだろうか。
・・・
奴隷市場にでた 母親と子供が引き離される場面がある。
母親は子供と一緒に引き取ってくれと懇願する。
懇願された男は考え込み、商人に「いくらだ?」と聞く。
そして、値段を聞いて高すぎると思い、母親の奴隷のみを買う。
母親は泣きながら連れて行かれる。
家に帰り、男の妻が出迎えた時「何故泣いているの?」と尋ねる。
男は「子供と引き離されたんだ、仕方がない」と
妻は「かわいそうね、忘れなさい」と同情する。
このシーンを思い出しながら、考えた。
この妻は悪い人間なのだろうか?
もしくは夫は?
この映画に本当の悪はいただろうか?
確かに、極端に残虐な仕打ちをする白人は登場する。
だけど、根底に良心の呵責が空気のように存在している。
善悪を明確にする答えはなく。
奴隷制度とは誰か一人の人物が始めたものなのか?
それとも、人間の総意が生んだ制度なのか?
この映画の中で生きている人物は皆、人間である。
善悪の輪郭がぼやけた世界で生きている普通の人たち。
誰かが悪いわけではなく、存在した奴隷制度が悪い?
ならば、何故?その奴隷制度とやらは存在したのか?
ある日、空から奴隷制度が降ってきたわけではないのだから。
心に残る。良作。
ラスト。
誰が救われて?
誰が救われなかったのか?
自問自答がうごめいている。