のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

脳は個性を保つために神経細胞を増殖させない。

"脳の神経細胞には増殖する能力がない。"

それはおそらく、脳が個性を保つためであろう、と。

 

私たちは"常にエントロピー増大の法則"に襲われている。

これは福岡伸一さんが主張する基本原則である"動的平衡"の考え方である。

 

過去のブログでも触れた事があるが。

anfield17.hatenablog.com

 

一言で言えば。

細胞が一定の周期で壊れる→増殖するを繰り返す事で我々の存在を維持している、との考え方。

イメージで言えば、エスカレーターを進行方向と逆向きに走る事で現在地を維持している、のと同じ。

 

その動的平衡の考え方から考えると。

細胞が全て入れ替わった僕は僕でありうるのか?

との考えが生まれ。

詰まる所、入れ替わっているのだから嫌な事があっても忘れちまおう、との発想に至った。

 

ただし、脳が変わらないならどうだろう?

アイデンティティはどこにあるのか?

 

仮に脳の神経細胞が全て変わってしまったとしたら。

我々は全くの別人になってしまうのだろうか?

 

他の全て、細胞が入れ替わったとしても。

脳だけはそれを許さない。

そこに、脳が唯一無二の臓器である事を雄弁に語る。

 

脳っていうものは本当に不思議。

うまくできているようでうまくできていない。

 

記述があるのが、池谷裕二さんの「記憶力を強くする」である。

僕を脳科学の世界に誘った最高の名著である。

 

 

バカであれ!三十路男。

気づけば30歳を超えた。

電車に乗った酔いどれたおっさんが乗り過ごした最寄り駅のように、気づかぬうちに過ぎるとのだよね。

乗り過ごして終電逃すような事がないといいな、と思うばかりである。

 

男は不思議なもので、歳をとれば取るほどバカができるようになる。

 

心が広くなるのか、深くなるのか。

理由は定かではないけれども。

三十路を超えて、バカができる男になりたいと思う。

 

バカをできる男、は、バカな男とは決定的に違う。

可能である事と、そのものである事、の違い。

いわば、演じられるかどうか。

 

例えば、極悪人を演じる俳優が本当に悪い奴か?

否。

演技の振り幅の問題だけである。

 

僕が、バカができる男になりたいと思うのは、バカが一人いるとその場が救われるから、である。

周囲の人間が楽をできるから、である。

 

飲み会を開催する時、まあ、あいつがいれば大抵は盛り上がるよね。と思える人は、バカができる人だと思う。

 

そういうわけで。

三十路を超えて、今だからこそ、バカをやりたいと思う。

バカのできる人になりたいと思う。

 

ありがたい事に。

いい手本が周りにいる。

恵まれている。

 

大人の嗜み、として、バカができると解釈する。

その見方で周りを解釈すると。

あの人の人気も納得できるかもしれないね。

 

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そんなことを思いながら、晩酌をする。

 

本において。 心に残る言葉は財産だ。「遠い声に耳を澄ませて」

「夢は、ごはんと糠漬けとおみおつけだけの朝ごはん」

あるとき、みのりが言った。

そうか、と聞き流しそうになった僕に、

「それだけでじゅうぶん、と思えるような暮らしがしたい」

 

引用にて。

 

本において。

心に残る言葉は財産だ。

なんだか心に残る言葉。

それを紡げるのが作家の力。

そこに魅力を感じるのが、読書の世界。

 

「遠くの声に耳を澄ませて」

宮下奈都

 

この人の作品は「羊と鋼の森」だけを読んだ事あり。

繊細な言葉が印象的。

そこに関しては変わらず。

 

ああ。

この人の作品は言葉が残る。

 

あらすじを引用。

端々しい感性と肌理細やかな心理描写で注目される著者が紡ぎ出す、ポジティブな気持ちになれる物語。

看護師、会社員、母親。その淡々とした日常に突然おとずれる、言葉を失うような、背筋が凍るような瞬間。

どん底の気持ちを建て直し、彼らが自分ひとりで人生に決断を下すとき何を護り、どんな一歩を踏み出すのか。

人生の岐路に立つ人々を見守るように描く、12編の傑作短編集。

 

ちょっとずつ繋がる短編集である。

基本は独立した話であるが。

しばらく読み進むと、あ!!!となる。

 

僕は本作において。

「うなぎを追いかけた男」が一番好き。

鰻たる生態系が全くわからない生物の研究に没頭した男がポツリとつぶやく一言が心に響く。

 

言葉を引用する。

 

結局、私には何もわからなかった。

うなぎが生まれて死んでいく場所も、自分が何のために生まれて死んでいくのかも、わからないままです。

ただただあちらの海、こちらの海、と航海し続けて、気づいたらこんな歳になっていました」

 

そこにあるのは人生を捉える暖かい眼差しであり。

瑞々しい力である。

 

こういう作品を読むと読書家でよかったと思う。

細かい事ではなく。

言葉の力を感じる作品。

 

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池井戸潤さんの作品はバッティングセンターでホームランを打つようなもの。「下町ロケット」

下町ロケット

池井戸潤

 

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あらすじを引用。

 

ドラマも大ヒット!
あの直木賞受賞作が、待望の文庫化!

「お前には夢があるのか? オレにはある」

 

研究者の道をあきらめ、家業の町工場・佃製作所を継いだ佃航平は、製品開発で業績を伸ばしていた。

そんなある日、商売敵の大手メーカーから理不尽な特許侵害で訴えられる。

圧倒的な形勢不利の中で取引先を失い、資金繰りに窮する佃製作所。

創業以来のピンチに、国産ロケットを開発する巨大企業・帝国重工が、佃製作所が有するある部品の特許技術に食指を伸ばしてきた。

特許を売れば窮地を脱することができる。

だが、その技術には、佃の夢が詰まっていた――。

男たちの矜恃が激突する感動のエンターテインメント長編!

第145回直木賞受賞作。

 

一言でまとめると、大企業と闘う中小企業の町工場。

 

中小企業の技術力で大企業との横暴に闘う。

 

本作はドラマ化しており、僕自身は見ていないが。

嫌でも入ってくる情報によって形成された事前イメージと100%合致。

この点、良くも悪くも、である。

 

少女漫画を読んでいて、とどのつまりヒロインと王子様が結ばれるんでしょ?と思ってしまうジレンマと既視感がある。

 

ドラマ 「半沢直樹」で強く印象付けられた物語の進み方。

誰かが言っていた。

池井戸潤さんの作品は全部こんな感じだよ!!!」

 

それでもなお、人はかくの如きストーリーに惹かれるのである。

 

判官贔屓、を今更語るまでもなく。

人は、フランス対クロアチアのW杯決勝でクロアチアを応援したくなるもの。

中小企業なめんなよ!!!

大企業に負けるなよ!!!

と言いたくなる。

 

バッティングセンターで例えてみる。

当たり前だが、(素人からすると)、全く打てないバッティングセンターって面白いか?

決してそうではない。

バッティングセンターとは。

カッキーン!!!!と打てるから楽しいのである。

 

打った所で何かあるわけではない。

それでもなお、人は打つためにバッティングセンターに通うのである。

 

池井戸潤さんはバッティングセンターみたいな爽快感のある作品を生み出す稀有な作家である。

この定義は悪くない表現に思う。

 

わかりきった結果であっても楽しいものは楽しい。

期待に応えるのは難しい事なのだけど。

池井戸潤さんは見事の期待に応える事のできる作家さんである。

 

 

 

何者

就活。

SNS

二つのテーマで若者を描く。

 

描かれるのは、行き場のない不安、である。

 

「何者」

朝井リョウ

 

良い作品。

僕自身は今、31歳であり。

もう少し下の世代にはドンピシャリの作品だと思う。

 

あらすじを引用。

就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。

光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから――。

瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。

だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて……。

直木賞受賞作。

 

自分自身が嫌な奴だと感じる瞬間。

誰しもが経験があると思う。

 

例えば、

他人の成功を素直に喜べない、など。

僕自身、自分の中の醜い感情、と対峙した経験は何度もある。

 

就活はまさに醜い感情が明らかになるもので。

"内定をもらっていない人"が"内定をもらった人"を素直に祝えるか?というと。

非常に複雑。

余程の大親友であれば話は別であるが。

ただのクラスメイト程度の存在であれば・・・

"よかったじゃん!!!おめでとー!!!"

との言葉を発する事は出来たとしたって。

自身に生まれるのは、焦燥感、だけである。

 

祝っていない、と言ったら嘘になる。

だけど。

心の中に蓄積する黒い影のようなものは確実に存在する。

認めたくはないけれど。

人間的なごく普通の感情、である。

 

 

本作は、"ごく普通の感情" が巧みに描かれている。

劇的、ではない。

でも、着実に淀みが溜まっていく。

 

若者たちが淀みに対してどう向き合うのか。

そこにSNSが絡んでくる。

ストーリーの起伏が激しい作品ではないが。

最後までの流れは実に丁寧でスムーズ。

さすが直木賞

 

登場人物は主に5名。

それぞれが弱さを抱えている。

これがまた典型的な弱い若者、を描いていて。

正直な話、イライラする部分もある。

 

ただ、思うに。

自分自身にも社会の波に飲まれる前の自分は存在していて。

他人とは違う何か、になりたがっていた。

今の僕は彼らの弱さに一致はしないが共感する。

 

作品の中に限って言えば、彼らを愛する事は出来なかったが。

彼らの未来を愛する事は出来そうな気がした。

 

 

 

儚い羊たちの祝宴

カニバリズム

いわゆる、人肉を食べる事、である。

 

人間がやってはいけない事の中には、

①環境によって刷り込まれたもの

②人間の本能的に拒絶するもの

に分かれる、と僕は考えるが。

カニバリズムは後者だと思う。

 

①環境によって刷り込まれたもの、については。

(世の中の女性からすると猛反発かもしれないが)

例えば、一夫多妻制、とは子孫を増やすために有益な事(=本能的には受け入れるべきもの)であると思う。

ただ、環境がそれを許さない。

不倫、との言葉が意味する通り、倫理的に許されない、のである。

 

とかく、この、本能的にやってはいけない事(禁忌と表現される)の呪縛は強いものがあり。

今回読んだ小説は、その呪縛的な所を漂っているような小説、である、と表現したい。

 

儚い羊たちの祝宴

米澤穂信

 

この作者の作品は「満願」に続き、二つめ。

印象として。

ダークな部分が実に印象的。

 

あらすじを引用

夢想家のお嬢様たちが集う読書サークル「バベルの会」。

夏合宿の二日前、会員の丹山吹子の屋敷で惨劇が起こる。

翌年も翌々年も同日に吹子の近親者が殺害され、四年目にはさらに凄惨な事件が。優雅な「バベルの会」をめぐる邪悪な五つの事件。

甘美なまでの語り口が、ともすれば暗い微笑を誘い、最後に明かされる残酷なまでの真実が、脳髄を冷たく痺れさせる。

米澤流暗黒ミステリの真骨頂。

 

 

思考回路、がダークなのである。

怨恨、などと表現できる、単純な話ではなく。

ネジが外れている、と言った方が正しい。

そこは、いわゆる、カニバリズム、的な話と似通うものあり。

禁忌的な深層でのダーク。

本作の魅力はそこにある。

 

短編集が連なる。

共通するのは、漆黒の闇。

人間が生み出す闇を。

いや、醸造する闇、と言った方が良いか。

これでもか、と表現する。

実に力のある作家だと思う。

 

羊と鋼の森 名作にて。

僕には才能がない。

そう言ってしまうのは、いっそ楽だった。

でも、調律師に必要なのは、才能じゃない。

少なくても、今の段階で必要なのは、才能じゃない。

そう思う事で自分を励ましてきた。

才能という言葉で紛らわせてはいけない。

あきらめる口実に使うわけにはいかない。

経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱。

才能が足りないなら、そういうもので置き換えよう。

もしも、いつか、どうしても置き換えられないものがあると気づいたら、そのときにあきらめればいいではないか。

怖いけれど。

自分の才能のなさを認めるのは、きっととても怖いけれど。

 

努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。

自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。

それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。

  

乱暴に文中の言葉を引用するだけで、魅力を伝える事ができると思った。

それだけ・・・本作の言葉には魅力がある。

 

羊と鋼の森

宮下奈都

 

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あらすじを引用。

ピアノの調律に魅せられた一人の青年が調律師として成長する姿を温かく静謐な筆致で綴った長編小説。

2016年本屋大賞受賞。

ゆるされている。世界と調和している。
それがどんなに素晴らしいことか。
言葉で伝えきれないなら、音で表せるようになればいい。

「才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。

あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。

もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。(本文より)」

 

ピアノの調律師について。

僕自身が調律師を題材とした小説を読んだ事がなかったので設定自体が楽しめた。

 

青年がピアノに魅せられて調律師としての人生を歩む。

目指す音は分かっている。

でも、どうやって辿り着くのかがわからない。

 

目指すべきものが茫洋とする時。

人は時に道を見失う。

 

調律師、とは、いわゆる正解のない世界である。

・・・

音に正解はない。

どう調律すれば、あの音に辿り着くのかがわからない。

・・・

"自分には才能がないからしょうがない"

この言葉は僕自身も口にした事のある言葉。

口にすると同時に。

自分を守る言い訳の膜を纏っていたと思う。

できない理由を自分以外の何かに預ける事で自分を正当化していたと思う。

・・・

繰り返しだが、もう一度、引用する。

 

僕には才能がない。

そう言ってしまうのは、いっそ楽だった。

でも、調律師に必要なのは、才能じゃない。

少なくても、今の段階で必要なのは、才能じゃない。

そう思う事で自分を励ましてきた。

才能という言葉で紛らわせてはいけない。

あきらめる口実に使うわけにはいかない。

経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱。

才能が足りないなら、そういうもので置き換えよう。

もしも、いつか、どうしても置き換えられないものがあると気づいたら、そのときにあきらめればいいではないか。

怖いけれど。

自分の才能のなさを認めるのは、きっととても怖いけれど。

 

本作は一人の青年の物語。

青年は"才能がない"との言葉をあきらめの口実に使う選択をしなかった。

その選択が・・・

いかに自分を律した上での決断であるか。

言い訳を飲み込んだ上での強さであるか。

30年生きた僕にはそれがよくわかる。

 

言葉が残る。

心に突き刺さり、中で確固たる形で沈殿する。

本当に名作。

ああ、いい本との出会いはなんでかくも幸せな事なのか。