のらねこ日記

読書、映画、考え事など。色々なテーマを扱える人になりたいです。

仕事と人生

”仕事と人生”とのタイトルから滲み出る古い時代のビジネスマンの匂い。

帯にある著者の写真がまさしく昔ながらの〜といった厳格な雰囲気を醸し出す。

今の時代、そのような生き方は本流ではないのかもしれないが。

経験から語られる仕事の考え方は、

間違いなく現代の仕事術としても通用する。

(というより、ある程度、普遍的なのだろう)

 

ビジネス書を読んで思う。

何年か前に気づいた事が書いている、とか。

やっぱりそうだよね、とか。

実体験を持って実感する金言があちらこちらにある。

 

僕自身はもう10年程のキャリアがある。

その上で、

新入社員の頃読んだ本をもう一度読み返す。

すると、線を引く部分が明らかに増える事に気づく。 

新入社員の頃は通り過ぎてしまった言葉が、

経験値により実感できるものとなり、引っかかるようになったのであろう。

 

今の自分が引っかかる言葉に線を引くと、

後々、読み返した時に自分の成長がわかる。

 

加えて、

自分が線を引けないような、引っかからない言葉にこそ、

熟考すべき価値のある言葉(自分がまだ知らない教訓)である可能性がある、と。

特に古典的な名著はそうかもしれず。

一度、何も残らなかったとしても、何度も読み返すのが良いかもしれない。

 

仕事と人生

西川善文

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引用

ラストバンカー・西川善文が晩年に語っていた「仕事ができる人」とは?
2020年9月に世を去った、稀代の銀行家の遺言。


「鬼上司」「不良債権と寝た男」…悪評を物ともせず、時代の先を見通し、
今何をすべきか腹の底から理解した男は、人の真価を見抜く天才だった。
いつの時代も変わらぬ本物の仕事術がここにある!

 

 

僕は西川善文さんの事は知らず。

 

知っている人であれば、また違った見方もできるのだろうけど。

 

第一章

”ものごとをシンプルに考える。”

仕事ができる人の定義として、

頭の中を整理整頓できる人である、とする。

 

多くのビジネス書で語られる事なのだろうが、

冒頭の一発目にシンプルに、この一文を差し込まれると、

ああ、なるほど、と思う。

それ自体がシンプルな構図であり、

シンプルさを体現していると言って良い。

 

また、その後に続く、

①自分ができること

②自分でやるには難しいこと

を明確に区別するのが肝要、との事は、

まさしく、と思う。

 

そこに加えて、

100点ではなく、70点で実行する方が大事である、と語る。

 

合わせると、

70点の段階で自分にできる事を実行する。

これ、重要である。

 

過去に一緒に仕事をした人で、

ダメだと思う同僚は、

②自分でやるには難しいことを100点満点まで調べている。

そして、

100点満点の調査結果を周囲に漏らす事で自尊心を保っている。

これは仕事をしたつもりの人間が陥りがちな事だと思う。

 

その上、70点で行動した同僚の失敗を、

調査が足りないと嘲笑ったりする。

もはや害悪と言って良い。

 

更に進んだ段階として、

②自分でやるには難しいこと

を、人を巻き込んで実行する、とのステージもあるのだが。

ある程度の年次までは、

70点の段階で自分にできる事を実行する。

で、十分に仕事ができる側に属する、と思う。

 

0点→70点までの道のりと、

70点→100点道のりは、

1点の重みが異なる。

山の頂上に至る道と同じ、最後の道中が厳しい。

ただ、目的が絶景を見る事であれば、

7合目で見える絶景で目的を果たすのがビジネスのあるべき姿なのであろう。

スロウハイツの神様 辻村深月

スロウハイツの神様

辻村深月

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人生を振り返った時、

あの出逢いがあったから、今の人生がある、

そう思えるものは存在する。

その出逢いは偶然かもしれないが、

必然であるかのように、自分の一部になる。

心の輪郭を鷲掴みされて、

無理矢理に形を変えられたような、

名状し難い感情の揺さぶりを鮮明に思い出せる。

それでいて、その感情は、

自分の細胞、一つ一つに刷り込まれているかのような、

存在する事が当たり前であるかのような存在である。

 

直木賞作家 辻村深月さんの作品

スロウハイツの神様は、

そのような人生を変えた出逢いを描いた作品である。

と言うと、

ありきたりな作品のように思えるが、

本作は、その出逢いに対しての熱量において、他の作品と一線を画する。

 

おそらく、辻村深月さん自体が同じような原体験があるのであろう。

(そうでなれば、そう思わせる力強さがある)

人は、本当に好きなものについて語る時。

早口になって、前のめりになる。

その言葉は熱を帯び、目は輝く。

周囲の温度が上がるかのような雰囲気を纏う。

本作にはそういう源泉的な熱さがある。

 

そして、僕自身、

そういう作品にめっぽう弱い。

自分自身が、そのような、何か好きなものがある事を支えに生きてきた、からだと思う。

 

その時を思い出すと、

世界が震える。

それくらい夢中になれる瞬間が、

人にはある。

僕は、その時、その瞬間、そこに存在した事だけで、

僕の人生は幸せだったと言い切れるような体験をした。

 

この作品は、

好きで好きでたまらない、人生を変えたような体験にリンクして、

猛烈に感情を揺さぶる作品である。

 

あらすじを引用。

 

人気作家チヨダ・コーキの小説で人が死んだーー

あの事件から10年。
アパート「スロウハイツ」ではオーナーである脚本家の赤羽環とコーキ、そして友人たちが共同生活を送っていた。
夢を語り、物語を作る。
好きなことに没頭し、刺激し合っていた6人。
空室だった201号室に、新たな住人がやってくるまでは。

 

辻村深月さんの作品は割と愛読しているのだけれど、

この作品は、一番好きであると言っても良い作品である。

本屋大賞となった「かがみの弧城」の方がまとまっている感じがするのだけれど、

スロウハイツの神様は、

辻村深月の小説を書くマグマのような熱い源泉を浴びせかけられたような作品である。

 

震えて泣いた。

主人公の赤羽環が言う。

「だったら、忘れてしまえばいい。私は絶対に覚えているから。絶対に、忘れたりしないから。あの心に響いた感じに揺り動かされながら、ここまでやってきた。これから先も、きっとやっていく。」

人が本当に好きなものを人生で得られるのは、

ただそれだけで幸せな事である。

その事を、本作を読むと強く思う。

 

そして、またこの作品自体が、

僕の人生を揺り動かした大切な瞬間であり、

また誰かの人性に対するクサビとなるのである。

 

素晴らしい作品を紡いでくれた事に心より感謝する。

 

推し、燃ゆ

社会に馴染めない人、は、ある一定数いる。

僕自身も、全ての人に馴染めるわけではなく、

例えば、IT企業の超エリート軍団とか、喧嘩っ早いチンピラ集団、ハロウィンの若者とか、

たぶん、うまく馴染めないであろう集団は容易に思いつく。

 

馴染めない。

とは、呼吸ができないようなもので、

呼吸できない環境とは、

苦しい。

当たり前の事を、当たり前にできない時、

人は、ただただ、苦しい。

その苦しさは、

他人が推し量ることのできない。

それも、

他人は呼吸ができている中、

ただ独り、呼吸ができないのである。

 

呼吸をすればいいじゃん?

との安直な問いかけは、心に突き立つ刃となる。

自分が当たり前だと思う事が、

人にとっては当たり前でない事は多い。

悪意なき刃は人を深く傷つける。

 

馴染めなくても、生きていかなければならない。

呼吸できなくても、息を吸わなければならない。

その苦しさの中で、何に縋るのか。

そして、それは果たして救いになるのか。

本作を読んで、

そんな事を考えた。

 

盲目である事が安らぎになる事もある。

 

推し、燃ゆ

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あらすじを引用。

 

逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。

アイドル上野真幸を“解釈“することに心血を注ぐあかり。

ある日突然、推しが炎上し——。

デビュー作『かか』は第56回文藝賞及び第33回三島賞を受賞(三島賞は史上最年少受賞)。

21歳、圧巻の第二作。

 

若い作家さんで驚いた。

推し、との言葉にはどうしても若さを感じざるを得ないが、

文章は巧緻である。

読み応えがあった。

 

若者のリアルを読み解ける、との感想は少々、安易に思える。

本作は、推しが炎上した話ではなく、

社会の中で、

うまく馴染めずに呼吸をできないような女の子の話である。

(はっきりとは言われないが、主人公は発達障害だと思われる記述がある)

 

例えば、

主人公のあかりがバイト先で、

常連客にちょっとハイボールを濃いめで作ってくれない?と頼まれる。

あかりは、ハイボールの濃いめと普通の料金表を持って常連客に見せるが、

そういうことじゃない、のである。

 

機転の利く人であれば、

偉い人にバレないように、

ちょっとだけ濃いめのハイボールを作って、

絶対ナイショですよ!

等と、その場に馴染む振る舞いをしたりする。

それは、変な言い方であるが、

うまく生きるための処世術なのである。

(決してルールを破る事を推奨しているわけではない)

 

あかりは、そういう処世術でうまく生き抜く事ができない。

それが、呼吸ができないような苦しさを生むのだ。

 

その中で、

あかりが、救いとしているのが、推しを推す事であるのだが、

この物語は推しによって人生が救われました、と言ったような感動物語ではない。

 

結末の言及は避けるが、

当たり前であるが推しもまた社会の一部である。

あかりが馴染めなかった社会の一部なのである。

その事実を知ってもなお、生きていかなければならない事に、人間のリアルを感じた。

 

 

「ままならないから私とあなた」

熊本に鈍行列車で向かった事がある。

いわゆる青春18切符での鈍行の旅であり、

お金はないけど時間がない学生の定番であった。

でかいリュックと一緒に、まるで置物のようにちょこんとボックスシートで座っていたのだけれど、

途中で乗ってきたおじさんに、

「おう!兄ちゃん、熊本行くのか?」

といきなり話かけられた。

心の中で、

(この列車で熊本に向かっていない人間なんていないだろ、何故なら熊本行きの電車だから!)

と思いつつ、

「そうなんです!」

と元気良く返事をした所、

「そうか兄ちゃん!熊本は夜の街も良いからなぁ」

と、青少年に有害な事を直球でぶつけてきた。

中学生の男子に接するすげぇエロいおじさんみたいな雰囲気である。

こういう人、いるよなぁ、と思いつつ。

少々、話をして、出会いとしては悪くない事であり、

旅の本懐とも思った記憶がある。

それは、飛行機で熊本に到着していたら、

決してすれ違わぬ邂逅。

 

「ままならないから私とあなた」

朝井リョウ

 

この本を読み終わった時に、

熊本で出会った見知らぬおじさんの事を思い出したのは偶然ではない。

 

もし飛行機で熊本に着いていたら、との仮定は、

おじさんとの思い出を夢散させるが、

もしかすると、熊本城を長い時間かけて丁寧に観察する事により、

また別の出会いがあったかもしれない、と思う。

その二つの、もし、には優劣がなく、

どちらも人生の中では起こりうる事なのだと思う。

 

あらすじを引用。

先輩の結婚式で見かけた新婦友人の女性のことが気になっていた雄太。
しかしその後、偶然再会した彼女は、まったく別のプロフィールを名乗っていた。
不可解に思い、問い詰める雄太に彼女は、
結婚式には「レンタル友達」として出席していたことを明かす。 「レンタル世界」

成長するに従って、無駄なことを次々と切り捨ててく薫。
無駄なものにこそ、人のあたたかみが宿ると考える雪子。
幼いときから仲良しだった二人の価値観は、徐々に離れていき、
そして決定的に対立する瞬間が訪れる。
単行本に、さらに一章分を加筆。少女たちの友情と人生はどうなるのか。
「ままならないから私とあなた」

正しいと思われていることは、本当に正しいのか。
読者の価値観を心地よく揺さぶる二篇。

 

本作は、

熊本へ鈍行列車で向かう事を時間の無駄と考える女の子である薫と。

鈍行で行く事で巡り合えた出会いが大切であると信じる雪子、の話である。

その運命は巡るものであり、

どちらが正しいとか、間違っているの話ではない。

そこに優劣をつけようとした時に、

人生は何かが失われるものであると、本作は語る。

その事について、どう思うのか。

 

朝井リョウは、現代に関するわかりやすい違和感をストレートに投げかけてくる作家である。

 

 

痛みの話。親知らずについて。

元来より、痛みがあまり好きではない。

(誰でもそうだろ、バカ。という声が聞こえてきそうである。)

ただ、多分、人より、痛い事が嫌いである。

 

サッカー部だった時代に、

情熱的なスライディングタックルを仕掛けて、

太腿の外側に500円玉以上の面積の大きな擦り傷ができた時、

痛みに負けルヨ!という具合に、

終始俯いていた日々の事を思い出す。

(間違って真冬に咲いてしまったヒマワリぐらい萎れていた)

 

ただ、特に嫌いなのが、自分で選択する痛みである。

もしくは、予定された痛みと言い換えても良い。

わかりやすく言えば、

健康診断の注射は嫌い、

でも、

いきなり暴漢が襲いかかってきて注射されるのであれば、

感情が痛みに追いつかないから比較的大丈夫な気がするのである。

 

そんな僕であるが、

生涯で最高にブルーになった痛みの経験が親知らずの抜歯である。

 

思い出すだけでも身の毛がよだつ、

あの力任せに、テコの原理で抜歯する施術。

もう21世紀ですけど?

なのに、こんなにも力技で抜くんですか?

とか思っていたら終わったのだけれど、

精神的ショックは、

ボブサップにロープ際で絶え間なく殴られ続けたぐらいの破壊力があった。

 

そんな僕の体験は、

左下の親知らずを抜いた体験だったのだけれど、

歯医者さんに行くたび、右下の親知らずも抜いた方がいいですよ?

と半年に一回言われている。

 

その度、僕は、

嫌です。

ときっぱり断っているのだけれど、

担当の歯科医さんが、

天使のように微笑みながら、理屈で攻められる。

・親知らずを抜かないと隣の歯がダメになってもっと大変な事になります。

→なぜなら、この親知らずがある事でここにゴミが溜まって・・・・

頭では理解できるが、

気持ちがついてこない典型的な例である。

 

その歯科医さんは、

実は、二人目の担当の方なのだけれど。

最初に担当してくれた時、

引き継ぎ書みたいなのを読みながら、

「左下の親知らずを抜いた時の心の傷が癒えてないので、右下の親知らずは抜きたくないって言っているみたいですけど、心の傷は癒えましたか?」

と聞かれたのが印象的である。

無論、心の傷は癒えていません、と答えたのだけれど。

(情けない男である。)

 

そんな僕もつい先日、

親知らずが黒くなってきました、と親知らず死刑宣告をされてしまい、

ついに抜くしかない状況に陥っている。

・・・

ああ!

寝ている間に誰か無理やり抜いてくれないかしらん。

 

「大人になったなと感じるとき」

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

深呼吸をすると、

怒りが消えるようになったと思う。

ただ、怒りを消すためには、

深海魚が生息するぐらいの深い呼吸が肝要である。

チョウチンアンコウが闊歩する世界を想像して・・・

水深200メートル~800メートル・・・

(あ、そういえば、昔食べたあんこう鍋美味しかったな・・・)

とか思っていると、

怒りが霧散している(事が多い)。

そんな時、ふっ、俺も大人になったな、と思う。

(個人的には、丸くなったと言いたが、そもそも、尖ってない)

 

元来、沸騰的に怒りに任せて行動するタイプではない。

怒ると黙るタイプである。

黙った結果、

「怒ってんの?」

と聞かれて、

「怒ってないです。」

「いや、怒ってるじゃん?」

「いやだから、怒ってないって。」

→この問いかけが逆鱗に触れる。

(何度も聞くんじゃねぇよ、怒ってねぇって言ってんだから)

となるタイプである。

ただ、ある時に気付いたのだけれど、

このタイプは相当めんどくさい。

寝落ちした後、午前1時過ぎにシャワーを浴びるぐらいめんどくさい。

結果、

怒りを感じたらその場から離れる。

これがベストの対応だと感じている。

怒りを内包しているとロクな判断はしない。

判断がロクでもなければ、無論、行動もロクでもない。

しかも、

人間は自己正当能力が高いので、

行動までしてしまうと、行動した理由を正当化するらしい。

恐ろしい話である。

(確か、アンカー効果と言ったような)

そうなってくると、怒りを感じた時点で、

脱出である。

深呼吸でもするが良し。

・・・

大人になるってのは、

自分を客観視する事がまず第一であると思うのである。

 

 

 

 

 

言ってはいけない 残酷すぎる真実

人は生まれながらに平等である。

これは学校教育において、

源泉的な底流にあり、

常に雰囲気として学生たちを包み込んでいる呪縛であると思う。

”努力すれば、夢は叶う!”

も同様に根拠がない。

数学の証明問題であれば、

0点であるどころか、先生の心証を損ねてマイナスの評価となるかもしれない。

 

この事については、様々な意見があり。

決して盲目的に教えを否定するわけでもない。

逆の話で、

”人は生まれながらに不平等である、努力してもダメなものはダメだ!”

と教えた場合、

”じゃあ、努力しても意味ないじゃん。”

と、数学の証明問題であれば100点の論理的繋がりで生徒がやる気をなくす可能性がある。

 

努力して叶った夢ももちろんあり。

逆に、努力したけど叶わなかった夢もある。

おそらくどちらも事実であるので、

どちらかを一方的に押し付ける事が間違っているのであろう。

 

ただ、世の中には、

”それを言っちゃあ、おしまいよ”

と思わず言いたくなるような事があるのも事実で。

”結果、みんな死ぬんだから、どう生きたって一緒。”

が最たる例である。

(本当にその信念に基づいて人生を貫徹させようとしている人を見た事はないが。)

そのため、世の中には、”言ってはいけない暗黙の了解”が存在しているのである。

 

そんな”言ってはいけない”事を紹介しているのがこの本。

言ってはいけない

残酷すぎる真実

橘玲

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紹介を引用。

この社会にはきれいごとがあふれている。

人間は平等で、努力は報われ、見た目は大した問題ではない―だが、それらは絵空事だ。

進化論、遺伝学、脳科学の最新知見から、人気作家が明かす「残酷すぎる真実」。

読者諸氏、口に出せない、この不愉快な現実を直視せよ。

 

言ってはいけない事、とは、

例えば、知能は遺伝する、といったような事である。

 

・大学教授の子供は頭が良い。

・この子が頭が悪いのは親がバカだからだ。

この二つは同じ事を違うベクトルで指摘しているのだけれど、

確実に後者は言ってはいけない事に属する。

 

例えば、先生が、ある生徒に、

「君の親はバカだから、君がどんなに頑張ってもバカなままだよ」

と言ったとすると、

校長先生すらも真っ青になる程の大問題となる。

 

ただ、本書の中では、身長が遺伝するのと同じように、

知能の部分も遺伝する、と語られる。

 

そうなってくると、

本人の努力ではどうにもならない部分の領域が確かに存在していて。

”じゃあ、僕がバカなのは、自分の親がバカなせいだ!”

と、(それこそバカな)論を展開する奴も出てくる気もするのだが、

そもそもの話、

頭の回転の良し悪しなんて単純な話ではなく、

親がバカだと決めつけるのもまたバカの所業である、と思ってしまうのである。

 

そういうわけで、

知識の遺伝については、

悲観的に捉える必要がない、と個人的には思うのだけれど、

どうだろうか。